与えられてることに感謝し、目の前のことを頑張ろう。
こんばんは。
今日はこないだ内省してたことをそのまま書こうと思います。いつもより長いので、読みたい人だけでも読んでくれたら、嬉しいです。
ざっくりした内容としては、
色々なもの与えられてることに感謝しよう。
やりたいことができなくても目の前に頑張ろう。
自分のやりたいことが出来てる時は、やりたいことを我慢してる分、もっと頑張ろう。
ってことを書いています。
てことで、内省してたことをそのまま書きます。
内省してたら、生きてるのが情けなくて、恥ずかしい気持ちになりました。
たぶん初めての感覚でした。
そんな感覚に陥ったのは、自分が今現在、誰かに何かを与えることを全くしていないにもかかわらず、
自分は誰かから与えられてばかりの存在だからです。
今この文章を打ってるパソコンも、今来ている洋服も、今かけている眼鏡も、
全部、だれかに与えられているから、僕は生きています。
でも僕は、いま誰にも何も与えられていないから、自分は人から与えてもらってばっかりのクズ野郎だって思ってしまいました。
裸眼で生活して、裸になって、パソコンも使わない生活をすれば、
与えられることから逃れられて、クズ野郎だって思わないで済むかな?
と考えたけど、生きてる限り与えられることからは逃れられないとすぐに分かりました。
じゃあ死んだら逃れることが出来るのだろうか。と次に考えました。
死にたくないけど、生きてるのが情けないから、与えられない存在になるために、死ぬ選択肢もあるよな。
って思ったのです。
でも、ちょっと考えたら、死んだところで、僕は与えられない存在にはなれないと分かりました。
僕が死んだって、葬儀をしてくれる人や、お供えをしてくれる人、仏様になった僕にお祈りしてくれる人がいるからです。
だから僕は、死んだ後も与えられる存在からは逃れられません。
僕だけじゃなくて、多分全ての人は、ほぼ永遠に、与えられることから逃れることはできないのかもしれないなと思いました。
そして僕は、与えられることからは逃れられないのに、与えられることに情けないと思ってしまうなら、自分も与える人になることでしか、情けなさからは抜け出せないのだと考えました。
じゃあどれだけ与えたら、この情けなさから抜け出すことができるのだろう?って考えたけど、与えられたものを定量化することはできません。
だから、どれだけ返せばいいのかわからないのです。
これじゃあ僕は、どれだけ人に与えることができても、一生情けなさからは抜け出せないでいることになってしまう。
つまり、一生、嫌な気持ちで生きることになる。そう思いました。
それはいやでした。
そして、気付いたのは、情けないという考えがダメなんだということでした。
もちろん、人に何も与えずに、自分が与えられるだけの生活は、場合によっては情けないと思う必要はあるかもしれないけど、
自分も誰かに与えることができてると少しでも自負があるのであれば、情けないと思わないでいい気がしました。
じゃあどうすればいいのかというと、
与えてもらってることに、感謝すればいいのだと分かりました。
与えられてることに、情けないと思うのではなく、与えてくれてありがとう。って思えばいいのだと考えました。
でも感謝だけじゃ、やはり甘いです。
自分も、与える存在にならなきゃなって思います。与えてもらってるだけ、与える人になる必要があると思います。
与える目的は、これまで与えられたことへの恩返しのため、救いたい人を救うため。
とかがあると思います。
しかし、「救いたい人を救う」に関しては、例外はあると思います。
誰もが自分の救いたい人を救えるかといったら、そうでもないと思います。
みんなが好き放題やって救いたい人だけ救ったり、提供したい価値だけ提供してたりしたら、難しいことはよく分からないけど、多分世の中は回りません。
どこかで我慢する人もいるだろうし、今は好きなことやってる人でも、瞬間的には我慢してることはあると思うのです。
どんな人でも多かれ少なかれ我慢する時がくるとも思ったのです。
何が言いたいかというと、結局、目の前のことを頑張ることが、何よりも大事なのかな。と思ったということです。
与えられたものは定量化できないのだから、おれは与え返せてる。って胸張れって言えるように、目の前のことを頑張るのがいいんだろうな。
って思ったのです。
そして時には、救いたい人とは別の人を救うことになったり、与えたい価値とは別の価値を与えることになったり、することもあるかもしれないけど、
それが自分の大事なものを失わないものなのであれば、それを頑張ればいいのかなって思いました。もちろん、自分の大事なものを失うのであれば、絶対やらないでいいとも思います。
救いたい人を救うことを、提供したい価値を提供することを、最初は追求していいんだろうな。って思います。
でもそれができなくなった時に落ち込む必要はなくて、目の前のことを頑張ればいいんだろうな。
って思ったのです。
就活なんかまさにそうで、最初は自分のやりたいことが出来る会社を目指すけど、ダメだったら、他の会社に行く。とかはよくあると思います。
僕もあと1社やりたいことが出来て行きたいなって思う会社を受けてるけど、そこに通らなくても頑張って働こうと思います。
もちろんその会社で、僕の救いたい人と提供したい価値を追求していくことは、続けていきたい気持ちはありますが。
また、さらに思ったのは、自分の救いたい人に、与えたい価値を提供できる立場になれた人やそこを目指す人は、
自分の思いを我慢して、救いたい人じゃない人を救ってる人に感謝して、
その人たちの分ももっともっと頑張らなきゃいけないんだろうなって思いました。
だって彼らのように我慢してる人がいるから、世の中が回ってると思うからです。
自分の救いたい人に提供したい価値を提供することを追求したり、自分の好きなことで生きていこうとする人は、
それを追求することを我慢して働く人の分も、もっともっと頑張って、大きな価値を与えることが必要だとも思いました。
だから、自分にとっての救いたい人に提供したい価値を提供することは、とても責任が必要で、大変なことだなと思ったのでした。
こんな感じのことを内省してて思いました。
まとめると、冒頭に書いた通り、
色々なもの与えられてることに感謝しよう。
やりたいことができなくても目の前に頑張ろう。
自分のやりたいことが出来てる時は、やりたいことを我慢してる分、もっと頑張ろう。
ということでした。
長いのに、読んでくれた人、ありがとうございます!