選択理論で学んだことをシェアします

こんばんは。

 

前回の投稿で、選択理論の勉強をしてるってことを書いた。

今日は選択理論の勉強で学んだことを、ここに書いてみようと思う。

 

まず、選択理論とは?ということについて書く。

選択理論とは、

「あらゆる現象や状況は情報に過ぎないと考え、人間は、その情報を基に自分で判断した、その時の自分にとって最善だと思われる内発的に動機づけられた行動を選択している。」

という考え方だ。

もう少し分かり易く書くと、

「私たちの行動は内側から動機づけられている。」

という考え方だ。

例えば、雨が降ってたら、元気なくなる人もいれば、元気でてくる人もいる。

なので雨はただの情報で、その情報を基に自分をコントロールしてるのは自分なのだ。

ということだ。

伝わってるかな。。

 

ちなみに選択理論に相反する考え方は、外的コントロールと呼ばれる考え方だ。

外的コントロール

「人間の行動は、外部からの刺激に反応することで起こる。」

という考え方。

こちらも、もう少し分かり易く書くと、

「私の行動は、誰か/何かのせいである。」と考えるのが外的コントロールだ。

 

選択理論を学んでて、印象的だったのが、

「人は行動だけでなく、感情も選択できる。」

ってことだ。

 

つまり、落ち込んだり、イライラしたりって感情は自分が選んでるだけで、

落ち込まなかったり、イライラしないことだってできるのだ。

 

感情も選べるって話は以前聞いたことがあったのだけど、どうやって選べるんだろう?どうゆうことなんだろう?

って話聞いた時は思ってたので、選択理論を学んで、あーそうゆうことか。ってなった。

 

では、どうやって感情を選ぶかというと、

行動か思考を変えればいいらしい。

行動か思考を変えることで、感情を間接的に選ぶことができるそうだ。

 

もう少し詳しく書こう。

 

選択理論では、人間の行動を、全行動と呼んでいる。

全行動は以下の4つの要素で構成され、常にこの4つが絡み合って行動として現れる。

①行動(走る・蹴る・話すなど)

②思考(考える・想像するなど)

③感情(喜怒哀楽)

④生理反応(心拍をあげる・あくびなど)

 

①の「行動」と意味が重ならないように、僕らが普段している行動は「全行動」と呼んでいるのだと思う。

 

この①~④の内、僕らが直接選択できるのは①行動と②思考だけだ。

そして、③感情と④生理反応は直接選択できない。

 

しかし、行動と思考を選択することで、間接的に、感情や生理反応がコントロールできる。

例えば、怒りたくなったら(感情を選択する)、過去にむかついた経験を思い出せばいい(思考を選択する。)。

心拍を挙げたくなったら(生理反応を選択する)、ドキドキした経験を思い出したり(思考を選択する)、走ってもいい(行動を選択する)。

という感じだ。

 

えー、でも、あくびとかって、無理やりしようとすればできるよー。

って思う人もいるかもしれないが、

それはあくびをするという思考を選択することで、あくびという生理反応が起きてるのだ。

何かに夢中になってる人が、寝ずに作業してても、眠くならなかったり全くあくびが出てこないのは、思考が他のことでいっぱいだからだと思う。

 

こんな風に僕らは、思考や行動を選択することで、

間接的に、感情や生理反応が選べるのだ。

 

これって普段自然に実践されてる場面あるから、何をそんな当たり前のことを。。。って思うかもしれない。イライラしたら散歩にでかける人とか、よくいるもんね。

 

でもこうして、その理屈を言語化すると、汎用性が生まれるからいいよね。

 

どんな行動や思考の選択をしたらどんな感情になるのか、自分の中で整理しておくと、感情を自由自在に選べる人間になったりするのだろうか。とてもワクワクするね。

 

気分を変えたい時は行動か思考を変えてみるといいですね。

何かにイライラしつづけるのももったいないからね。

 

それじゃあまた。

 

 

承認欲求を満たすには

こんばんは。

 

最近、選択理論の勉強を始めた。

11月末に検定がある。僕はビジネス選択理論検定2級を11月末の検定で取得する。

プチ宣言です。

 

選択理論ってのは超ざっくりいうと、心理学だ。選択理論が何かって話は置いといて、

選択理論の勉強をする中で、自分の理想の自己像を考えるワークがあったので今日はそれを考えてみた。

 

これまでもこうゆうのは考えてきたことあったけど、

まだまだ抽象的で、今日というタイミングで、少し具体的になった。

 

その自己像ってのは、今日ブログで書くこととは全く関係ないんだけど、一応書いておこう。

 

僕は、

人に笑われるような挑戦に本気で取り組み、達成することで、笑っている人や挑戦できない人に勇気を与えられる人になりたい。

のだと感じた。

イメージとしては、DJ社長がドームライブやるって昔から言ってて、それが今、実現しそうなのと似てる。(DJ社長が勇気を与えたかったのかは分からないが。)

 

もちろんこの自己像はこれから変わることもあるかもしれないが、

前まで考えてた自己像から少し具体になったところを考えると、理想の自己像の方向性はこの辺りにあるんだと思う。

 

話が大分逸れている。こっからが本題だ。

 

今日のワークをやる中で、

僕は今、承認欲求が満たされていない状態にあると分かった。そして、承認欲求を人に満たそうとしてもらってることも分かった。

 

理想の自己像を考えるワークで、

尊敬される人になりたい・頼られる人になりたい、って一番最初に書いてたからだ。

 

でも、これは理想の自己像とは、なんか違うなあって思って考えてたら、

人に笑われるような挑戦をして成し遂げて、周りに尊敬されたい。って言葉が出てきた。

やはり承認欲求が満たされてないようだ。そして、人から尊敬を得ることで承認欲求を満たしてもらおうと考えているようだ。

 

けどやはりこれも理想の自己像とは違う!ってなった。

これまで、ちょっぴり人に笑われそうだなあって思う挑戦をして、

人にほんとに少しだけ何か影響を与えることができたんじゃないかな?

って思う経験がある。

この時の自分は理想の自己像に近かった状態だ。

そして、この時は、誰かに尊敬されたくてその挑戦をしようだなんて、ほんとに1ミリも思ってなかった。だから、違う!ってなった。

 

つまり、僕は今、承認欲求が満たされてないから、満たそうとしてるだけで、それは理想の自己像ではない。単純に今の僕の欲求だ。

 

じゃあ、どうやって承認欲求を満たすかって考えた時に出てきたのが、人に尊敬されることだったのだ。

 

でも、尊敬するかどうか決めるのって、最後は相手だから、人に承認欲求満たしてもらうのはコントロールするの難しいなあって思った。

それに尊敬されることを目的に行動してる人で、尊敬されてる人ってあんま見たことないよなあ。

例えば、自分の実績とか、能力をひけらかすような人の中で、

心から尊敬されてる人って多分いないよなあ。

ひけらかすまでいかなくても、さりげなーく自分の能力見せても、周りから見たら、すごいって言われたいという下心が丸見えな気もするし。

 

そうなったら、誰に承認欲求を満たしてもらうかって言ったら、答えは自分だった。

さっき書いた理想の自己像に近かった時の自分も、自分大好きな時期だったもんなあ。

尊敬されるかどうかも自分でコントロールできるし。

 

そうやって自分で自分を承認する人は、自然と周りの人からも尊敬されて、相乗的に、承認欲求が満たされて行くのだろうなあ。

 

つまり、人からの尊敬や愛も承認欲求を満たすことにつながるけど、順番としては、

自分が自分を承認する→(自然と)人から承認される。

なのだなあ。

と改めて実感した。

 

以前、僕の友達も、、他人からの承認じゃ底なしだ。的なこと言ってた。確かになあ、ってその時も思ってたけど、今日、その通り!って思ったよ。

 

今日思ったことを、ただシェアしてみました。

誰かの何かのきっかけになったらいいなあ。

 

中々壁を突破できない時は、一度テキトーにやってみる。

こんばんは、つきしまです。

 

先週の日曜日にブログが書けなかったのは、ブログを書く時間を確保できなかったのと、ネタが思いつかなかったからです。

今日は書けてよかった。

 

今日なのだけど、壁にぶつかってる時って、投げやり何かやるのも悪くないなあって思った出来事があったので、それを書いてみようと思う。

 

最近チェスがマイブームで、スキマ時間によくやっている。

GRITという本で、チェスは忍耐を養うのに、最適なボードゲームだと書いてあったので、やり始めたのだ。

 

たしかにあれは、忍耐を養える。

目の前の駒をとることだけしか考えなかったら一瞬で形勢逆転するし、

相手の色んな駒の動きを考えてから自分の駒動かさなきゃ、強い駒すぐとられちゃうし、

感覚で動いたらすぐにやられるから、忍耐はつく。

感覚で動いちゃったりする人、おすすめ。

 

そんなわけで、チェスをやってるわけだけど、

これが中々勝てない。

 

あるレベルになった途端、全く勝てなくなった。

1ゲーム30分くらいかけてやってることもあるんだけど(もはやスキマ時間ではないが。)勝てないのだ。

 

色んな駒の動かし方を試して、惜しい所まで行くときもあるんだけど、良くて引き分け。

 

そして、とうとう今日、考えるのが疲れてしまって、

うわー!ってなって、テキトーに駒を動かしてチェスをやってしまったのだ。

 

 

 

結果は、相変わらず負けた。

 

テキトーにやることは、忍耐を養いたいという、僕がチェスを始めた本来の目的からは、外れてしまっている。

けど、これまでとは違って、いい感じに相手の駒を動かせて、

これまでとは違った形でゲームが進んだのだ。

 

この状況になって僕は、これまで色々ぐるぐる考えてチェスをやってたけど、

たぶん僕の駒の動かし方は、色々変えてるつもりでも一定の傾向があって、だから、いつも同じ形で相手に追い込まれるのだと気付いた。

 

つまり、色々工夫してるつもりでも、実際そんな変わってなかったってことだ。

けど投げやりに、なーんにも考えないでプレイしたことで、僕の普段の思考回路とは違う駒の動きになって、結果いい形で追い込めるようになっていたわけだ。

勝てなかったけどね。

 

中々突破できない壁を突破するためには、いつもと違う行動をするのは大切だと思っているのだけど、

意図的に行動を変えられない人は、案外投げやりにやってみたら、上手くいくのかもしれない。

 

思えば、僕の高校の化学の先生も、

卒業研究かなんかで、実験が全然うまくいかないから、てきとーに薬品混ぜたら、なぜか実験成功して、研究が評価されたみたいなこと言ってた。

これと似てるな。というか全く同じだ。

 

いつもと違うことを意図的にするのって、多分けっこう難しい。無意識に行動って左右されるから。

そんな時は、なーんにも考えないで、てきとーに行動してみると案外状況が打破できたりするのかもしれないと思った出来事でした。

 

汎用性の低そうな気付きだな。。。

 

今の時代の人は、満足を先延ばしにする経験が不足しているらしい。

 

明日でブログを始めて4か月だ。

週2日投稿とはいえ、ここまで続けてこれて良かったなあ。と思っている。

 

文章を書く力はあがったとは思えないけど、考える時間は増えたなあ。

あとは9割型、決めた通り、木曜日と日曜日に投稿できてるのが嬉しいなあ。

自信になってるなあ。

正直、ブログネタ思いつかないで、書くの面倒だなあ。って思うことも多いけど、それでも書き続けてこれたのも自信になってるなあ。

 

最近、調子悪かったり、上手くいかないことあっても、おれなら大丈夫だ。何とかできる。って自信もてるのも、ブログは決めた通り実行できてるからなのかなあ。

 

続けることできてよかったなあ。

まあゆうて、週2投稿で、そこまで大変でもないのに、これで勝手に自信つくんだから、楽な性格だなあ。

 

話変わるけども、

こないだ本読んでて知ったのだけど、今の時代の人って、長期的な目標を達成するのに必要な忍耐が欠如してるんだって。ここで言う長期的な目標の長期的ってのは、数ヶ月なんてものじゃなく、何年も先の目標だ。

 

こうなってしまったのは、目的をはたすのが容易な時代になったかららしい。

例えば、

ピザが食べたきゃスマホですぐ食べられるし。

物が売りたきゃ、アプリですぐ出品できるし。

本が買いたきゃ、これまたスマホですぐ買える。

 

満足を先延ばしにしないことに慣れすぎてしまったのだ。

だから、忍耐が足りなくて、長期的な目的達成のハードルが上がってるらしい。

 

僕はディズニーランドとか並ぶの得意じゃないから、忍耐の欠如、あるかもしれない。いや、ある。

ブログ4か月続いただけじゃあ、忍耐なんて欠片しか身についてない。(最近嬉しかったことはこの欠片を手に入れたことだが。。。)。

と思ったから、もっともっとブログは引き続き、書いていきたい。

学生の内に本格的にSEOを学び、ある程度マスターもしておきたい。

 

話が、それた。そう、忍耐の話だ。

で、忍耐が身につく方法がその本には、いくつか書いてあった。

 

ガーデニングをする。

並んで待つ。

 

とかがいいらしい。忍耐つきそうだ。

ガーデニング、確かに、満足を先延ばしにしてる。並んで、待つ。も同様だ。

 

別に、長期的な目的達成じゃなくて、目先の目的の達成でいいじゃん。

って思うかもしれないけど、

忍耐をもってして、満足を先延ばしにできると、目的がより尊いものになって、目的達成の時の喜びが増すらしいのだ。

 

たしかにそうだな。

ディズニーのアトラクション5分ならんで乗るのと、60分ならんで乗るのとだと、多分後者の方が満足感が違う。

一生懸命貯金して欲しいもの買うのと、宝くじでも当ててササっと欲しい者もの買うのとでは、前者の方が満足感高いはずだし。

 

忍耐は気持ちいい感情を味わうためにも、つけておいた方がいいのだ。

昔は、果物の種を庭に埋めて、「りんごの木生えないかなー」なんてやってたなあ。

 

あの頃の忍耐を取り戻すために、僕は色々、遠い目的に向かって続けていこうって宣言をするためのブログでした。

 

 

 

ドーピングは悪なのか。

こんばんは。

今日は、路上ライブをやってきました。久々です。

これまでは、誰かしら知り合いを呼んでやっていたのですが、今日は初の試みで、誰も呼ばないでやってみました。

結果、隣で聞いてた一人の方が拍手をしてくれただけで、誰の足も止めることができなかった。

悔しかった。

 

やっぱり知り合いが聞いててくれると、周りの人も気になって聞きに来てくれるもんなんだねえ。

まだ1人にしか拍手してもらえないから。もっともっと練習をして、足を止められるようになろう。あとは、そろそろアカペラ卒業して、マイクやアンプ使ってやりたい。お金ためよう。

 

さて今日は、前ドラマで見て思ったことを書いてみよう。インハンドってドラマだ。

ドラマなんて、もう何年も見てなかったけど、これは見てる。

 

前々回くらいの回が僕は一番好きな回だった。

ドーピングをしてるマラソン選手について取り上げた回だった。その選手は、マラソンを早く走ったその先の世界が見たいって気持ちが強い。

だからドーピングをして、大会の度にタイムをあげることに成功している。

ただし彼は、ドーピングに頼るだけでなく、最大限の努力もしている。

 

また、大会のたびに記録を更新するこの選手の走りを楽しみにしているファンの人も多い。

 

しかし彼は、ドーピングが原因で、体に悪影響が出始め、最後には大会中に倒れてしまっていた。

 

 

さて、ドーピングは悪なんだろうか?

主人公の山P演じる、天才博士は、ドーピングを悪だとは捉えていないようだった。

 

科学の力で、タイムをあげることはダメなのだろうか?

ラソン選手は、幼い頃や普段の練習環境(例えば、標高の高い所に住んでいるか、低い所に住んでいるか。)で、タイムに差が出ることは往々にして、あるらしい。

これを「物理の力」でマラソンタイムをあげている。とする。

ご存知の通り、この「物理の力」を使って、マラソン大会に出場することは何も悪ではない。

 

では、科学の力。つまり、ドーピングをして、マラソン大会に出場することはどうだろう。ドーピングは世間一般では、悪だとされている。

 

山P演じる天才博士は言った。

科学はダメで物理はいいのか。

と。

 

重ねるが、このマラソン選手は、練習を怠けて、ドーピングに手を出したわけではない。

その証拠に、彼は、ドーピングに手を出す前から大会で優秀な記録を残していた。(確か。)

 

彼は、厳しい練習を重ねた上で、それでもその先のタイムの世界を見てみたいから、ドーピングをしていたのだ。自分の体が壊れていくのも知っているけど、それでもその世界見たいから。

 

そんな彼の走りを楽しみにしているファンの人もいる。

ドーピングをしても、誰かに害を及ぼすことはない。

 

さて、科学の力はダメなんだろうか?

ドーピングをした彼の走りは偽物だったのだろうか?

では、物理の力で速く走る人の走りは偽物ではないのか?

うーん。分からない。

 

ドーピングは、「努力は裏切らない。」という信念を掲げている選手への冒涜になる?だからダメなのかな?とか考えてみたけど、じゃあ物理の力は冒涜にならないのか?って考えたら、何とも言えない。

 

やっぱり分からない。

 

悪なのかそうじゃないのか。本物の走りなのか、偽物の走りなのか。

どうやってそれを決めるんだろう。人に迷惑さえかけなければ、それを決めるのは本人でいいんじゃないか。

って僕なんかは思ってしまった。まして彼は、誰よりも努力してたんだし。

 

努力を定量化できるようになったら、ドーピングをしてもいい選手としちゃダメな選手を上手く分けられるんじゃないか。今思ったけど。

それができないから、ドーピング=悪ってルールを作ってるんだろうなあと今思った。

 

話がぐちゃぐちゃになってるけど、このドラマ見て、

ドーピングがダメと言われてるから、ダメ。と思い込んでいた自分の頭の固さを思い知らされた回だった。

 

で、この話を見てさらに思ったのが、ピエール瀧の話だ。

彼は、コカインを使う生活を送りながら、芸能活動を行っていた。

そんな彼は、俳優としてたくさんの人の心を動かすたくさんの作品に携わっていた。

 

松本人志ピエール瀧が出た作品に対して、「ドーピングだと思うので、ダメだなと思いますね。」と言った。

 

果たしてこれは、「その通り。ドーピング作品だよね。」と頷いていいものなんだろうか。

松本人志からすると、ドーピング作品かそうでないかの違いは、合法か、非合法か、なようなんだけど、それでいいのだろうか。

この理屈は、大麻が合法な国と非合法な国がある以上、作品がドーピングかどうかは国の法律に依存することになる。

そう考えると、「その通り。ドーピング作品だよね。」とは安易には言えない。

 

 

一部の麻薬はドーピングよりも周りの人に害を与える可能性が高いように思うから、禁止にするのは分かる。

 

けど、ドーピングを始め、よく考えたら何でダメなのか分からないものを禁止していることは溢れている気がする。

 

何にも考えずに今日はグダグダとブログを書いてしまったけど、

要は、ドーピングも麻薬も、ダメと言われてるから、「はい、ダメですね。」で終わるのは思考停止だな。

って思ったってことだ。

 

こんなブログだけど読んでくれた人、ありがとう。

先生が、授業中寝てる学生を起こす理由に感動した話。

こんばんは。つきしまです。

もう先々週の話なんだけど、先生が授業中に寝てる学生を起こす理由を聞いて感動した。

寝てたって誰にも迷惑をかけないからいいじゃないか。と思ってる学生は是非読んでみて欲しい。

僕も寝てたって先生の授業に対するモチベーションを下げる以外の迷惑はかけてないだろ。って思ってたが、この先生の話を聞いて、授業は寝ない方がいいと思えた。

その先生は、寝てる学生がいるといっつも、起こす先生だ。
それも、教壇から「寝るなよー」とか言うわけではない。寝てる学生の席までわざわざ行って、学生を起こす。
もちろん全学生に目は届かないだろうけど、寝てる学生を見つけたら、都度都度先生は起こしに行く。

しかもこの授業は少人数の授業ってわけでもない。50人以上はいるくらいの規模の授業だ。

僕は毎回学生を起こしに行く先生を見て、
「寝てる人なんてほっとけばいいじゃんか。寝たいなら寝かせればいいのに。一々めんどくさくないのか?」
と思っていた。

そんな時、先生が先々週あたりの授業で、わざわざ学生を起こしに行く理由を話してくれた。
これを聞いて、自分の考えが如何に浅はかであったか思い知らされた。
その理由とは、

寝てると、学生は自分が話したことを部分的に聞くことになる。その結果、伝えたいこととは異なる学びをして欲しくないから。

だそうだ。

例えば授業中の先生の発言で、

世界には〇〇という国があってね、
この国では、人をいじめることが良しとされてるんですよ。

って発言が仮にあったとする。
授業中寝てる学生がいたらこの発言の

「この国では、人をいじめることが良しとされてるんですよ。」

という部分だけ切り取って聞いてしまうかもしれない。
するとこの学生は、日本ではいじめをしていいって思われてるんだと解釈するかもしれない。

こんな感じで、学生が寝てしまうと部分的に先生の話を聞くことになる。

それによって先生が伝えたいことは違った理解をする可能性を恐れて、先生は学生を執拗なまでに起こしているのだということだ。

「寝るくらいなら、教室の外で寝てくれ。」ともこの先生は言うが、それも納得だ。

僕は正直、授業中に学生を起こす先生って、
自分の話を聞いてくれないと寂しいから、とか
話を聞かれてないことがイライラするから、って理由が大半だと思っていた。

それに、わざわざ学生を起こす先生って、嫌われやすいと思う。少なくともあんまり好かれる先生ではないはずだ。

そんな嫌われ役になってでも、
自分の伝えたいことをできる限り誤解のないように伝えようとする先生の信念みたいなものに、僕は何よりも感動したのだ。

 

余談だけど、

僕はこの先生の授業を受けると毎回毎回、色んな考え方を知ることができるから、この授業が大好きだ。受けてよかったなと思う授業だ。

 

このブログを読んでくれてる人の中に、授業中寝てしまう学生は、いるだろうか?

授業は寝ない方がいいと、心から思ったよ。

 

今日も読んでくれてありがとうございました。