ブログ再開に至った経緯について

再開後1発目のブログが0時を過ぎ、幸先が不安ですが、気にせず書いていきます。

(僕の中では、寝る前までに投稿ができてればセーフなのです。、、、甘い??)

 

今日は僕がブログを再開するぞ。

と思い始めた経緯について書いていければなと思っております。

 

と言いつつも、経緯を書く前に、前回書いた再開の理由をちょこっと書いておきます。

ざっくりとした理由は前回のブログに書きました。

「インプットしたことのアウトプット先にしたい。」

という理由ですね。

なぜインプットしたことをアウトプットしたいのかと言うと、学びが、血肉になり、力がつくと思ったからなのです。力というのは、結果を残せる力のことであります。

(どれくらいのレベルの結果なら満足なの?って話は今回は置いときます。)

 

僕は今、株式会社チカクという会社でインターンをしていますが、始めたきっかけの1つにも、この、力をつけたい。という思いがあったのです。

(僕が力をつけたいと思う理由については次回、書きます。ブログのネタが1つできた、、!)

 

しかし、この再開理由ですが、実は不足があります。この不足について話すことが、ブログ再開までの経緯の話につながるのです。

色々と書きましたが、ブログ再開までの経緯についてやっとこさ書いてきます。

 

僕は少し悩んでいたのです。

僕の最近の1日はほぼインターンが占めているのですが、インターンを始めて2か月。
果たして僕に力はついてるのだろうか?
この2か月で何か力がついてるという明確な感覚もなく、学ばせてもらうことはあるけれど、それが自分の血肉になってる感覚がない。インプットしたことをアウトプットすればいいのかな。とか考えてるけど、それだけじゃ足りない気がする。。どうすればいいのだろう。。。

などと考えていたのです。頓挫していました。

 

そんなことを考えている最中、ある方から、ちょうど、力について話を聞くことがありました。

その方いわく、(僕の解釈が入りますが)力をつけるには、アサインされている仕事に加えて、自分を磨く時間を確保し続けるのがいい。また、頓挫してる時には、大胆な行動をとらなければ、変革は生まれない。

とのこと。

 

何てこともなく当たり前のことかもしれないですが、

力を手に入れたいと思っていて、かつ、そのためにはどうすればいいんだ、、、

と頓挫してた僕には、ブレイクスルーが起きた感覚が芽生えました。

 

そこから、自分を磨く時間を確保し、かつ、大胆な行動をとろう。

と思うようになったのです。ちなみに僕にとって大胆な行動≒恥ずかしくて勇気のいる行動です。

 

そこでまず僕が磨こうと思ったものは、思ってることを言葉にする力(いわゆる言語化みたいなもの)です。
理由は、(ほんとにおこがましく、根拠薄弱で勝手な自負でしかありませんが、)ある程度、同年代の人に比べて、ちょっびっとだけ、できることかもなあ。
と思えていたものだったから、かつ、
それを磨くことが大切だと過去の経験から分かっていたからです。

具体的に、何をすると決めたかというと、ジャーナリングです。

 

とはいえ、ジャーナリングは自分を磨けるとは思うからやるけど、1人で、できることだし、大胆な行動でもないし、恥ずかしい行動でもないし、勇気のいる行動でもない。

これでは、頓挫してる状況に、変革は生まれにくい。

 

では大胆なやり方で、言語化する力を磨けないか?
そこで出てきたのがジャーナリングに近いかつ、対外的な要素も含んでいる、ブログだったのです。


「いやいや、あんた、ブログ以前からやってたじゃん。全然大胆じゃないし、勇気要らないし、恥ずかしくないでしょ。」

 

と思われる方いるかもしれません。

 

違うのです。以前とは状況が。
何が違うかというと、僕のFacebookのフォロワーに、インターン先の社員さんがいらっしゃるのです。

 

社員さんが読んでくださるかは別にして、
僕より遥かに、何もかも優れた人に、フル開示した自分の考えを見られる可能性がある行動をとることは、
僕にとっては、非常に勇気が必要で、こいつ何言ってんだ?と思われる恥をかく覚悟が要る、とても大胆な行動なのです。

 

その証拠に、(こんな文章ではありますが)、しっかり丁寧にブログを書いてるつもりです。

 

ですが、これだからこそ、自分が磨こうと思っている力の1つ、「言語化する力」が、大きく伸びることにつながると思ったのです。

さらにこのブログを、以前から考えていた力をつける方法の1つ「インプットしたことをアウトプットすること」の活用先として用いれば、より飛躍的に力がつくのでは?

と考え、ブログに掛け合わせてみることにしたのです。

 

という経緯があり、
僕はインプットしたことのアウトプット先としてブログを再開するに至ったわけなのです。

 

だれかの参考になるわけでもない、ただブログ再開の経緯を紹介しただけの内容になってしまい、恐れ入ります。
興味ある方だけでも、見ていただけたらとてもうれしいです。
そして、今回読んでくださった方、ありがとうございます。また、次回もよろしくお願いします。

 

あ、もっと大胆な何かが見つかったら、皆様、背中を押してくださいませ。

(ああ、ブログって書くの大変ですね、、、!)

ブログ、再開するぞ。

ブログ、再開するぞ。ということで、ひとまず以前同様、木曜・日曜投稿で。

明日から、再開です。

 

インプットしたことのアウトプット先として、ブログを書こう。

と思ったのが再開のきっかけですが、

そんな意識高そうなものを書き続けられる気もしないので、ただ思ってることを書くだけの投稿も多くなることでしょう。

 

投稿内容には1点だけ、当たり前のことですが条件をつけます。

『思ってもないことを書かないこと。』

です。

 

いつかブログを読み返したときに、思ってもないことを書いてしまってたら、

え、自分こんなこと考えてた!?

ってな感じで、混乱しそうだからです。

 

というわけで、明日からよろしくお願いします。

最近気づいた自分の欲求について

こんばんは。

最近、週1投稿になっているので。ペースを取り戻したいです。


最近気づいたことをまた書きます。


今回は、何に気づいたかというと、

僕にも、ほとんど関わりの無い人でも喜ばせたい。

って欲求があることに気づいたのです。


僕はこれまで、

自分って特に親しくない人を喜ばせてあげたい。

って思えない人間なのかな。って思っていました。


仲良しの人は、喜ばせたいな。って思うことはできるのですが、そこまで仲良くない人や知らない人は別でした。

(こういった人って結構多いんじゃないか?って結構思いこんでます。)


でも僕にも意外と、そこまで関わりのない人も喜ばせたいって欲求があったのです。


ただ、欲求があると言っても、

まだまだ潜在的にそう言った欲求があるんだな。って気づいただけなので、とっても小さな欲求です。

けど、存在することには気づいたのです。


これに気づいたきっかけは、自分が人に何かをおすすめしたいと思う感情を深掘りした時でした。


人に何かをおススメするのって、色んな理由があると思うのですが、

僕はなんで何かをおススメしたいんだろう。って考えたら、

その人におススメしたものを通して喜んでもらいたかったからでした。


同じ体験をして、良い経験を共有したいのかなあ。とか、それを通して仲良くなりたいのかなあ。とか考えたのですが、それはあまりピンとこず。


ピンときたのは、おススメすることでその人に喜んでもらいたいんだ。

って気持ちだったのです。


こうして、僕にも

そこまで関わりがない人を喜こばせたい。

って欲求があることに気づいたのです。


僕はこれまで、

苦しむ人を本気で救いたい!

っていってる人を見ると、ほんとに本気で救いたいって思ってるのか?そんなに仲良くない人でも?

って思っていました。


でも僕自身にも、人を喜ばせたいって欲求が小さくあるってわかったら、

本気で救いたい!

って言う人がいてもおかしくないんだなあ。

と思えるようになりました。


僕の人を喜ばせたい欲求が小さいだけで、もっと大きい人がいても普通だよなあ。


僕は愚者なので、自分にそのような欲求があるって知ってからじゃなきゃ、人にも同じような欲求があると学べないのですが、この欲求に気づけたのはけっこうな発見でした。


こんな感じで、今日は終わります。


読んでくれた方、ありがとう。


1日だけ断食をして感じたこと

こんばんは。


最近、体をデトックスすることにはまっています。

その関係で、昨日、1日だけですが断食をしてみました。水と少しの塩を舐める1日を過ごしたのです。

断食によって体から毒素や汚いものが、排出されるそうなのです。


なので今日は、1日断食をして感じたことを書いてみようと思います。たくさんあるのですがいくつかピックアップして書きます。


まずは、当たり前だけど、とにかくめちゃめちゃお腹が空いて辛い。

僕はその日、軽く運動もしてたので、余計にお腹が空いていたのかもしれないが。とにかく辛い。


お腹空きすぎで、全てのことを食べ物に結びつけて考えてしまっていた。

例えば夜。

お腹が空きすぎて寝れないから、羊数えよー。

って思って羊数えてたら、この羊、ラム肉にしてシャブシャブにしたら美味しいかなあ。

なんて考えてた。

冗談みたいだけど、本当の話で、お陰で眠るのは苦労した。


他にも、Youtube見て空腹誤魔化そうとしても、自分が空腹すぎるせいか、食べ物に関わる動画ばっかり目に付いたり、SNS見ても食べ物の写真あげてる投稿が大量に目についたりした。

ほんとに食べ物のインスタストーリーばっかりだから、1度断食してストーリー見てみてほしいくらいだ。


こんな感じで、とにかく何でも食べ物に結びつけたり、食べ物意識したりと、お腹が空いて辛かった。

このままいけばいつか、そこら辺のゴキブリとか食べれるな。って本気で思ってたくらいだ。


ただ、この苦しさは断食の良いところでもある。欲求を抑えるという精神的な修行になるのだ。


この欲求と苦しみが2つ目と3つ目の感じたことにつながる。


欲求に関しては、ファミレスコンビニ神だな。

って、断食を通して感じた。


ちょっと食べたいと思った時に手軽に食事ができる環境が都会は特に揃っている。

これの有り難みを感じたのと、人間の欲求をバッチリ捉えていて、ファミレスとコンビニ考えた人すごいなって感じた。


とにかく現代は食の欲求を簡単に満たせるようになっているんだなって体感して、この時代に生まれてることが有り難いなって思った。


有り難いと思った一方でこの利便性の話は、

3つ目に感じた、苦しみの話に繋がってくる。これは、

苦しみを体験したからこそ喜びがある。

ってことだ。


断食したから感じられた喜びの1つに、水が甘いと感じたことがある。


断食中は味をほとんど体験しないから、僕は味を渇望していた。

苦しいなかで味を渇望し、水を甘いって思い込もう。って飲んでみたら、

何となく水の甘さを感じたのだ。


味を体験しないという苦を体験をきっかけに、少しの喜びを感じることができたのだ。


他にも断食が終わった後の食事でも、食べられることそれ自体の喜びを感じることができた。

おかゆを食べたのだが、ただのおかゆでも、ちゃんと甘い味がした。


食事をしないという苦しみを体験したからこそ、食事ができる喜びがあるんだなって感じられたのだ。


ファミレスやコンビニは本当に便利で有り難いけど、苦しみを体験した喜びを味わうのには、誘惑になるなって感じました。


前に本を読んだ時に、


現代人は自分の欲求を簡単に満たせる時代に生きてるから、苦しみを耐えた先にある大きな喜びを手に入れることを困難に感じる。


みたいなことが書いてあったのですが、まさにそれだな。って思いました。


苦しんだからこそ、喜びも大きくなるんだな。ぼくは普段、簡単に欲求を満たして生きてたな。

ってたった1日の断食だったけど、感じたのです。


目的だった体のデトックスが出来たのかは、あまり分かりませんが、精神修行になり、断食やってみて良かったなって感じました。


これからも月に2回くらいやろうと思います。

ぜひみなさんもやってみてください。

久々に自分の想いについて書いてみました

こんにちはつきしまです。

 

今日は久々に、僕の想いについて書こうかなと思います。特に、理由があるわけではないけど、最近こういうこと書いてないし、ブログ書いて半年たつので、最初の投稿ぶりに書いてもいいかなあと思ったので。

 

なので今日は、自己紹介みたいなブログですね。

 

僕の想いはけっこうシンプルで、

皆が、自分が本当に思ってることを言えるようになったらいいな。

ということです。

 

もう少し具体的に説明したら、2つのの想いが出てきます。その2つは若干、方向性がずれます。その2つとは、

 

人間関係が原因で、自分の声に蓋をするような人を減らしたい。

期待が裏切られないような社会にしたい。

 

の2つです。

1つ目は、何となく意味が分かると思うので、2つ目の説明を少しします。

期待が裏切られない。ってのは、分かり易くいうと、嘘がない。ってのに近いかなと思っています。

 

例えば、僕の思う期待が裏切られる。という状況にはこんなのがあります。

このブログを読んでくれてる人が、

僕に対しては「この前のブログめっちゃ良かったよ!」

と言ってくれているのに、僕がいない時には

「あいつのブログ意味不明だったな。」

と誰かに言ってる場面は、期待が裏切られてすごく嫌だなって思います。

一度「ブログが良かった。」と言って期待させておいて、「ブログが意味不明」と言われてるのを聞き、期待が裏切られているというわけです。

 

他にも例えるとこんなのもあります。

商品の広告なんかで、

「この商品を買えば、悩みが一瞬で解決します!」

なんて書いてある広告があったとします。

で、いざその商品を買ってみると、全く悩みが解決されない。みたいのも期待を裏切っててすごく嫌だなって思います。

「これを買えば悩みが解決する。」と期待させておいて、いざ商品を買ってみても、全く悩みが解決されない。これも期待が裏切られてるなと思っているのです。

 

説明が長くなりましたが、こんな風に、

人間関係が原因で、自分の声に蓋をするような人を減らしたい。

期待が裏切られないような社会にしたい。

という2つの想いが僕にはあるなと感じています。

 

まあ、どちらの想いも、皆が本当に思ってることが言えるようになれば、実現できるので、方向性は同じだと思っています。

なので、2つまとめて、

皆が、自分が本当に思ってることを言えるようになったらいいな。

というのが僕の想いなのです。

(僕も常に、本当に思ってることを言えるわけではないですが。)

 

相変わらず、この想いを人生賭けてまで実現してやる!ってほどの熱量は持ててませんが、僕はこんな思いを持っていますよ。

ってことを伝えるべく書かせてもらいました。

 

この想いが生まれた背景は、

自分が、自分の本当に思ってることを出せないで苦しかった経験。

反対に、本当に思ってることを出して嬉しかった経験。

の両方を体験して生まれました。

こういった経験をたくさんしたから、この想いが生まれたんだろうなと思っています。

 

 

そして、この想いが実現したらいいなと感じる場面はよく見ます。

 

例えば、誰かの陰口を聞くときは、

「それ本人に言うのが、2人の関係もよくなるんじゃないか?」

って思うこと多々あったりします。

 

皆が皆、僕も含めて、本当に思ってることを言えるようになったらいいなあって思います。

 

どうこれを実現するか考えてはいるけど、ピンとくるものはまだなく色々試している状況です。

 

以上、自己紹介みたいなブログですが、こんな想いをもっていますよ。ってことを書いたブログでした。

自分の想いについて久々に書きましたが、

他の方の想いなども、少しだけ聞いてみてもいいかなって気持ちが湧いてきました。

 

読んでくれて、ありがとうございます。

 

自分を信じてくれてる人を探して、大切にする。 

こんにちは、つきしまです。

 

最近、

嬉しい・悲しい・楽しい・腹が立つ、みたいな喜怒哀楽をあんまり出してないな。

思ってることは言葉にするけど、感情は言葉にしてないな。

って感じたので。喜怒哀楽を出していこうって思います。まずはブログでそれを意識してみます。

 

今日は、

信じてくれる人がいるって嬉しいな。そんな人を大事にしたいな。読んでくれてる人は大事にできてますか?ってことを書いてます。

 

僕には、僕の力や可能性を信じてくれてるんだな。って思える人が何人かいます。

これはとてもありがたくて、嬉しいです。

 

例えば以前、僕が、壁にぶつかってる時に、

つきしまなら、そこら辺の壁も冷静に対応して乗り越えられるんだろうな。

って言ってくれる人がいました。

 

これは嬉しかった。僕なら壁を乗り越えられるって信じてもらえてることが嬉しかったのです。実際壁にぶつかってた時も、この言葉を何度か思いだして、乗り越えることができた。

 

他にも、

さすがの行動力だね。

って言ってくれる人もいました。

「さすが」って言葉は、行動力に対して、信じてくれてる言葉だから、出てくるのかな。って思ったら嬉しいです。

 

信じてもらえることはプレッシャーにはなるけど、総じて嬉しいものです。

 

あと、初めは気付かなくても、よくよく考えてみたら、「あ、この人、自分を信じてくれてるんだな。」って思える人もいる。

 

例えば、過去に人からもらった言葉を振り返ってみると、「あ、この人僕のこと信じてくれてたんだな。」って思える言葉を投げてくれてた人や、

言葉じゃなくても、態度や行動で、「この人僕のこと信じてくれてたんだな。」

って思える人もいる。

こんな風に、意外と気付いてないけど、自分のことを信じてくれてる人は、周りにいたりするものだ。

 

自分を信じてくれてる存在って、認めてもらえてると思えるから自信になるし、自分にもできるのかな?って思う力にもなる。やっぱり信じてもらえるって嬉しい。

 

こんな風に、僕を信じてくれたと感じたエピソードを並べたり、気付いてないけど信じてくれてる人って意外と周りにいるって書いてるのは、

読んでくれてる人に、自分の周りにいる信じてくれる存在に気付くといいな。そして、大事にしたらいいな。って思ったからだ。

 

なぜなら、信じてくれる存在に気付かなかったら、その人をそこまで大切にしようって思えないから。

そして、そこまで大切にしてなかった目の前のその人が、いつかの未来で、自分を信じてくれている存在だって気付いた時に、「ああ、もっとこの人を大切にしておけばよかった。」と後悔することになるからだ。自分で自分が嫌になります。

 

後悔しないためには、信じてくれている存在に気付き、その人を大切にすることは大事な気がしている。

 

読んでくれてる人も、考えてみて損はないなと思っています。

 

読んでくれてありがとうございます。

ありたい自分になれない自分

昨日は、僕が以前参加してたコミュニティの集大成イベントに参加してきました。

コミュニティの参加者が、自分について10分間プレゼンテーションをするようなイベントです。

 

ここで話す人は自分の夢や想いを彼らなりのプレゼンテーションで、話してくれます。

 

以前のブログで、ありたい自分でいるためには、そばにいる人も大切だって書きました。

最近は、そんな風に生きてる人・もがきながら生きてる人と関わる機会がたまたま増えてて、自分も良い感じになってきてる気がします。

 

なんだけど、昨日のイベントで見つけたありたい自分から離れてる自分も見つけてしまいました。それについて書こうと思います。

 

昨日のイベントで、イベントのお客さん同士で、聴いたプレゼンの感想をシェアしましょう。という時間がありました。

僕は初めて会うお客さんと感想のシェアしてました。

 

でそこで、あんま好きくない自分に気付いたのです。

それは、何となくそれっぽい感想言って、会話の間を埋めようとしてる自分でした。

 

相手とは初対面な上、僕はそこまでコミュニケーション能力が高いわけではないので、喋らないと会話に間が生まれそうだったのです。

その間を埋めるために、僕は、それっぽい感想をその人に話していたのです。

 

もちろんそれっぽい感想と言っても、別に嘘をついてるわけじゃないし、一定ホントに思ってることではあるんだけど、心の底から出てくる声じゃなかった感覚。

 

僕のありたい自分ってのは、ざっくりいうと、本当に思ってることを言えている状態。

あの感想はその状態とは、ほど遠かった。そんな自分がいました。

 

あんな風に感想を話してしまう理由(つまりなぜ間を埋めようとしたのか)が分からないので、明日はそのことについて考えてみようと思います。

 

今日のブログで何か伝えたいことがあるとすれば、

想いと、想いを実現する力

みたいな話につながるのかもしれません。

 

想いのある人に関わる機会が増えて、僕も最近は想いが増してる気がします。

けど、想いを実現する力がないから、

あんな風に、自分のありたい姿とは程遠い、あり方になってしまってるんだろうな。

と思います。

 

内省して、あんな風に感想を言ってしまった理由を見つけてきます。