ありたい自分でいるためには

こんにちは、つきしまです。

 

僕、最近、あるイベントに運営として関わったのですが、そこで感じたことを、つらつら書いてきます。

 

ざっくりこのイベントについて説明すると、自分の生きたい人生について考え、そんな人生に向けて1歩踏み出すサポートをしよう。

ってイベントです。

こんなイベントの運営に、小さくですが、関わってました。

 

運営として参加したこのイベントですが、色々感じるきっかけをもらいました。

 

そばにいる人って大事だな。ってことや、集団のパワーってものすごいな。ってことを感じたのです。

 

このイベントでは、色んな人の自分の人生への想いを聞きました。参加者も多様です。

これから休学して、いずれは大学辞めて、自分の生きたい人生に向けて活動しようとしてる人。

今やってる仕事と並行して、自分のつくりたいサービスつくってて、いずれ仕事辞めてサービスに専念したいと考えてる人。

4月に入った会社やめて、すでに自分の生きたい人生に向かって生きる道に進んでる人。

自分の想いに向かって生きたいけど、ちょっと怖いから悩んでるって人。

などなどです。

 

色んな人がいましたが、彼らに共通するのは、自分の生きたい人生に向けて生きたい。

って気持ちだったと感じています。

 

僕はイベント運営側ですが、

自分の生きたい人生を生きたい。と思っていながら、最近はそんな生き方が出来てなかった人間でした。

 

でも、イベントの参加者たちの話を聞いて、

自分の想いに向かって生きてる人、いいなあ。

そんな風に生きたいなあ。

と勇気をもらいました。

勇気をもらったおかげで、想いに向けた、行動を始めるきっかけにもなってます。

 

やっぱり、自分が理想とする生き方を体現してる人がそばにいると勇気をもらうなあと感じたのでした。

 

そしてさらに思ったのが、そんな人が集まるとさらにパワーが増すなあ。と感じたのです。

というのも、これまで1対1で、自分の想いに向かって生きてる人と話す機会は適度にあったのです。

その時ももちろん、勇気はもらったのですが、このイベントではその時以上の勇気をもらいました。

 

人が集まった時の見えないパワーみたいなものはあるんだな。と感じたのです。

 

自分のありたい自分でいるために、そんな生き方を体現してる人のそばにいること、

そして、そんな人がたくさん集まる場にいること。

これが、かなり大事だなあと感じた出来事でした。

 

今日も読んでくれた方、ありがとうございます。

理解不能な行動をとる人に対するイライラを減らす方法

こんばんは、つきしまです。

ブログが1週間空いてしまいました。理由は色々なのですが、今週は通常通り、週2で投稿の習慣を取り戻していこうと思います。頑張ります。

 

今日は久々に、選択理論で学んだことのシェアをしようと思います。

 

この学びは、理解不能な行動をとる人に対するイライラを減らすのに役立ちました。

その学びとは、相手が満たしたいと強く思ってる欲求がどんな欲求なのか考えて関わることです。

 

どういうことか、詳しく書いていきます。

選択理論では、人間は生まれながらに、以下の5つの基本的な欲求を持っていると考えます。

 

・生存の欲求(例,睡眠欲、食欲、生殖、失敗を回避し安全を求める傾向)

・愛、所属の欲求(例,誰かと深く関わりたい、色んな人と広く関わりたい)

・力の欲求(例,認められたい、勝ちたい、成果を残したい)

・自由の欲求(例,自分のやりたいたいようにしたい)

・楽しみの欲求(例,新たな知識・経験を得たい、好奇心旺盛、知識欲)

 

全ての人間は、この5つの欲求を全て持ち合わせています。ただし、その欲求の強さは人それぞれ異なるそうです。

力の欲求をたくさん満たしたい人もいれば、楽しみの欲求をたくさん満たしたい人もいる、ということです。

 

 

 

人の行動が、理解不能だと思ってしまい、イライラしてしまうのは、この、「5つの欲求の強さは人によって異なる」というのが要因になっています。

 

例えば、自分のやりたいように仕事を進めたいAさんは、自由の欲求が強い傾向があります。

一方でBさんは、強い生存の欲求をもってるので、失敗したくないという気持ちが強いです。なので、Bさんは仕事のやり方を先輩に指示をもらうまで動きません。

自由の欲求が強いAさんは、

「なんでBさんは、先輩に指示もらってばかりなんだろう?」

と思うはずです。

もしAさんとBさんが仕事を一緒にするなどで関わる機会が増えれば、AさんはBさんに不満が溜まるでしょう。同じく、BさんもAさんに不満が溜まるはずです。

 

他の例だと、遊園地に遊びに行きたい彼女と、お家でゆっくりしたい彼氏の間では、楽しみの欲求と、生存の欲求がぶつかっています。

これが積み重なると、このカップルは互いの欲求が満たせなくなるので、不満が溜まって関係が悪くなるかもしれません

 

こんな風に、人それぞれ、欲求の強さが違います。そして欲求の強さが異なるもの同士が、関わることで、互いが互いの行動を理解できず不満が溜まり、イライラして、関係が悪化してしまうわけです。

 

では、どうすればイライラせずにすむかと言うと、相手が強く満たしたいと思う欲求が何かを考えるだけでいいと思っています。

イライラの原因は、満たしたい欲求の違いによるものだ。

って分かるだけで、イライラは案外消えるものです。

 

ああ、この人の行動イライラするなーって思った時は、

この人のの欲求は何だろう?あ、この人は力の欲求が強いのか。だから楽しみの欲求が強い私は、イライラしちゃうのか。

みたいに考えるだけで、いいのです。これはけっこう効果あります。

 

もちろん、仲の良い友人や、恋人など、選べる人間関係では、欲求の強さが似てる人同士で関わればいいのですが、仕事やアルバイトでは、そうはいかないので、この考え方は役に立つのです。

それにどんなに仲の良い友人でも、いずれ欲求の衝突が起きることもあると思いますし。

 

相手の行動にイライラしたら、相手の欲求が何なのか考える。

意識的なことなので、定着が難しいかもしれませんが、ぜひ、使ってみてはどうでしょうか?

 

読んでくれてありがとうございます。

勝手に不安になったり、落ち込んでしまう人はどうするか。

こんにちは、つきしまです。

こないだの日曜日、ブログを書けなかったのですが、ダラダラと過ごしてしまって、書きませんでした。完全に怠惰な日曜日でした。

休日だからって家にいると、ダラダラしてしまうのを治したいですね。

 

今日は、最近ちょろっと考えてることについて書こうと思います。

それは人それぞれが自分の中にもってる常識についてです。

 

自分の中にもってる常識ってのはどんなものかと言うと、例えば、

身に付けている服が安価な人は、価値の低い人間だ。

みたいな考えとか、

人は、大抵、自分の知らないところで、悪口を言ってる。

みたいな考えとかだ。

 

つまり、自分の中で、当たり前になってる考えのことを、ここでは常識と言っている。

もちろん、常識は、人によって異なる。なので、

身に付けている服が安価な人は、良い人だ。

って考える人もいれば、

人は、大抵、自分の知らないところで、人の良い所を話している。

って考える人もいるはずだ。

 

常識の説明はこの辺りにして、今回の投稿で、何が言いたいかと言うと、

こうゆう常識って、常識の内容によっては、自分を苦しめることがあるなあと思っているということと、どうやったら、その苦しみから抜けられるのか考えてみたってことだ。

 

 

まず、どうして常識が自分を苦しめるかというと、ネガティブな常識をもってるとネガティブな思いこみが始まって、気分が落ち込むからだ。

 

例えば僕が、「身に付けている服が安価な人は、価値の低い人間だ。」という常識をもってるとする。

そんな僕は、自分が全身COACHの服を身に付けてる時に、全身ユニクロのA君に出会ったら、A君を価値が低い人間だと見下すはずだ。

逆に、全身ヴィトンのB君に出会ったら、「ああ、僕は、B君より服が安いから、B君は僕を見下してるんだろうな。ああ嫌だな。」と勝手に落ち込む気がする。

そして、僕は見下されるのが嫌で、B君と距離をとるようになったり、見下されないためにエルメスで身を纏うためにお金貯めたりする。もしくは「B君に見下されてるんだろうな。。」って嫌な思いしながらB君と関わり続けたりもするかもしれない。要は、苦しい思いをするってことだ。

 

と、こんな風に、「自分の常識って、他人も同じ常識を適用している。」と無意識に思いこんでる人は一定、いる気がする。「そんなの、それこそ、お前の常識やろ。」って思われるかもしれないけど、ある程度人と関わってみると、「自分の常識は、人も同じように適用してる。」と考えてる人はいると感じることはわりとある。

 

頻繁に人の悪口を言っちゃう人は、周りの人も自分の悪口を言ってるんだろうな。って思いこんでたり。

人を能力で見ちゃう人は、周りの人も自分を能力でみてるんだろうな。って思いこんでたり。

って人を見かけることはある。で勝手に、落ち込んじゃったり、不安になったり。

 

こうゆうのけっこうあると思うんだよなあ。僕はある。

 

自分の中の常識を持ってることは別に普通だと思ってるので、常識を否定してるわけではない。

 

でもきっと人それぞれ違う常識があるから、こうやって勝手に思いこみをして、勝手に落ち込むのは、きっと見当違いで、勝手に不幸になるだけだからもったいない。人によって、見え方は違うから、何事も決めつけてはよくない。って思って、なんとかその常識をあてはめないようにしている。

 

次に、どうやってこの、常識をあてはめてしまうことの苦しみから抜け出せるか考えてみた。

 

多分、「意識の積み重ね」と、「相手の常識の確認」を積み重ねて、「ああ、こんな常識もあるんだな。」って思う経験を増やせば、よい気がする。

 

「意識の積み重ね」は、さっき言ったように、人によって見え方は違うんだから決めつけない。って意識することだ。

 

「相手の常識の確認」は、例えば、全身ユニクロの服を着てる人がいた時に、周りの人に「あの全身ユニクロの人どう思う?」って聞いてみたりすれば、相手の中の常識が見えてくると思った。

 

こんな風に意識と確認をすることで、常識の幅が広がって、勝手に不安になったり、嫌な思いをしたりして苦しむことは減るような気がしたのです。

 

今日も読んでくれた人ありがとうございます。

 

大学の図書館にいて残念に思ったことと、嬉しい気持ちになったこと。

こんにちは、つきしまです。

僕は今、大学の図書館にいます。で、図書館にいて思ったことを今日は書こうと思いました。

 

近頃、僕の大学の図書館のほぼ全ての座席には、<盗難に注意>という旨が書かれたシールが貼られるようになった。

どうやら、図書館の席を離れたすきに、貴重品などを盗まれる被害が図書館では起きているみたいだ。

 

この注意書きを見て思ったことを書いていこうと思いました。

(今日の話は、注意書きを色々してるのに、盗難がなくならないという前提で話をします。)

 

 

色々書く前に、僕が思う、この注意書きがに期待されてる役割を書く必要があると思う。

 

この注意書きに期待されてる役割は、

「図書館利用者へ盗難に対する注意喚起」と

「盗難犯への間接的な警告」

の2つだと思っている。

 

注意喚起に関しては、<盗難に注意>という文字通り、図書館利用者へ注意するように呼び掛けている。

 

「盗難犯への間接的な警告」に関しては、「図書館利用者は、盗難防止意識が高まってます。盗難しようとしてる方、盗難が難しくなってますよー。」と図書館運営側が伝えたいのだと思っている。

要は<盗難に注意>という言葉はメタメッセージとして、盗難犯への警告をしてるのだ。

 

そして僕が<盗難に注意>という注意書きを見て湧いた気持ちが、「残念だなあ」という気持ちだ。

「わざわざメタメッセージとして警告されないと、盗難を辞めないような人が同じ大学にいるのか、はあ。」

という気持ちだ。

例えるなら、「宿題はやってこなきゃダメですよ。」って言われなきゃ宿題をやってこない小学生みたいなものだ。

盗難犯が学生とは限らないが、少なくとも高校卒業したくらいの年齢の人が犯人だと思うので、そんな人が大学にいるのか。。。という気持ちにはなる。

 

で、次に思ったのが、良くないことをしてる人に対してメタメッセージを伝えて、その良くないことを辞めさせようとした時に、

メタメッセージは上手く伝わったのに、良くないことを辞めてもらえなかったら、

どうやって良くないことを辞めさせられるのだろう。

ということを思った。

 

分かり易いように、盗難の例を使って書くと、

<盗難に注意>という注意書きで、盗難犯に盗難の警告ができたのに、盗難が減らなかった時は、どうやったら盗難を減らせるのだろうか。

ってことを思ったのだ。

 

盗難犯が後を絶たない現状があるって前提ではあるけど、

メタメッセージが伝わってるのに盗難する人が減ってないなら、

<盗難に注意>という注意書きに期待されてる役割である「間接的な警告」という役割を果たせてない。

 

もしくは、そもそもメタメッセージが伝わってなくて盗難する人が減らないなら、盗難犯は、きっと盗難を良しとされる環境で育ってきたのだろうと思うから、いくら注意書きをしても意味ないと思う。

 

僕が考えたいのは、前者。メタメッセージが伝わってるのに、盗難が減らないパターンはどうすりゃいいんだろう。ということだ。

 

 

答えはまだ分からない。メタメッセージのパワーを強くすることくらいしか思いつかないなあ。コピーライターの人とかは、こうゆうのが得意なんだろうなあ。

なんて思うくらいだ。

 

長々と、しかも自分なりの答も出てない、ただ思ってることを、書いたのでぐちゃぐちゃで恐れ入りますが、図書館にいて思ったことを書きました。

 

あともう1つ、今日ブログ書いてて、立教大学は心優しいな。と思った。(僕の大学は立教大学です。)

なんでかっていうと、盗難犯への警告にダイレクトなメッセージではなく、メタメッセージを使ってるからだ。

 

というのも、

大学には盗難犯がいるとは言え、多くの学生は盗難なんてしない学生ばかりだ。

それなのに「盗難は、絶対に許さない!」なんて張り紙が図書館の全座席に貼られていたら、少し不快な気分になりそうだ。僕はなる。

 

張り紙は、盗難をしてない学生の目にも入るので、そういった学生が不快な気分にならないように<盗難に注意>と書いて、学生の気分を損なわないようにしながら、盗難犯への警告も忘れない。

という、立教大学の心遣いには、心優しいなと思い、すこし愛校心が増した。

 

前に、メタメッセージなんて要らないだろ。みたいなことをブログで書いたけど、必ずしもそうじゃないなとも感じた出来事だった。

 

ちょっと長くなったけど読んでくれた人、ありがとうございます。

大学の図書館にいて残念に思ったことと、嬉しい気持ちになったこと。

こんにちは、つきしまです。

僕は今、大学の図書館にいます。で、図書館にいて思ったことを今日は書こうと思いました。

 

近頃、僕の大学の図書館のほぼ全ての座席には、<盗難に注意>という旨が書かれたシールが貼られるようになった。

どうやら、図書館の席を離れたすきに、貴重品などを盗まれる被害が図書館では起きているみたいだ。

 

この注意書きを見て思ったことを書いていこうと思いました。

(今日の話は、注意書きを色々してるのに、盗難がなくならないという前提で話をします。)

 

 

色々書く前に、僕が思う、この注意書きがに期待されてる役割を書く必要があると思う。

 

この注意書きに期待されてる役割は、

「図書館利用者へ盗難に対する注意喚起」と

「盗難犯への間接的な警告」

の2つだと思っている。

 

注意喚起に関しては、<盗難に注意>という文字通り、図書館利用者へ注意するように呼び掛けている。

 

「盗難犯への間接的な警告」に関しては、「図書館利用者は、盗難防止意識が高まってます。盗難しようとしてる方、盗難が難しくなってますよー。」と図書館運営側が伝えたいのだと思っている。

要は<盗難に注意>という言葉はメタメッセージとして、盗難犯への警告をしてるのだ。

 

そして僕が<盗難に注意>という注意書きを見て湧いた気持ちが、「残念だなあ」という気持ちだ。

「わざわざメタメッセージとして警告されないと、盗難を辞めないような人が同じ大学にいるのか、はあ。」

という気持ちだ。

例えるなら、「宿題はやってこなきゃダメですよ。」って言われなきゃ宿題をやってこない小学生みたいなものだ。

盗難犯が学生とは限らないが、少なくとも高校卒業したくらいの年齢の人が犯人だと思うので、そんな人が大学にいるのか。。。という気持ちにはなる。

 

で、次に思ったのが、良くないことをしてる人に対してメタメッセージを伝えて、その良くないことを辞めさせようとした時に、

メタメッセージは上手く伝わったのに、良くないことを辞めてもらえなかったら、

どうやって良くないことを辞めさせられるのだろう。

ということを思った。

 

分かり易いように、盗難の例を使って書くと、

<盗難に注意>という注意書きで、盗難犯に盗難の警告ができたのに、盗難が減らなかった時は、どうやったら盗難を減らせるのだろうか。

ってことを思ったのだ。

 

盗難犯が後を絶たない現状があるって前提ではあるけど、

メタメッセージが伝わってるのに盗難する人が減ってないなら、

<盗難に注意>という注意書きに期待されてる役割である「間接的な警告」という役割を果たせてない。

 

もしくは、そもそもメタメッセージが伝わってなくて盗難する人が減らないなら、盗難犯は、きっと盗難を良しとされる環境で育ってきたのだろうと思うから、いくら注意書きをしても意味ないと思う。

 

僕が考えたいのは、前者。メタメッセージが伝わってるのに、盗難が減らないパターンはどうすりゃいいんだろう。ということだ。

 

 

答えはまだ分からない。メタメッセージのパワーを強くすることくらいしか思いつかないなあ。コピーライターの人とかは、こうゆうのが得意なんだろうなあ。

なんて思うくらいだ。

 

長々と、しかも自分なりの答も出てない、ただ思ってることを、書いたのでぐちゃぐちゃで恐れ入りますが、図書館にいて思ったことを書きました。

 

あともう1つ、今日ブログ書いてて、立教大学は心優しいな。と思った。(僕の大学は立教大学です。)

なんでかっていうと、盗難犯への警告にダイレクトなメッセージではなく、メタメッセージを使ってるからだ。

 

というのも、

大学には盗難犯がいるとは言え、多くの学生は盗難なんてしない学生ばかりだ。

それなのに「盗難は、絶対に許さない!」なんて張り紙が図書館の全座席に貼られていたら、少し不快な気分になりそうだ。僕はなる。

 

張り紙は、盗難をしてない学生の目にも入るので、そういった学生が不快な気分にならないように<盗難に注意>と書いて、学生の気分を損なわないようにしながら、盗難犯への警告も忘れない。

という、立教大学の心遣いには、心優しいなと思い、すこし愛校心が増した。

 

前に、メタメッセージなんて要らないだろ。みたいなことをブログで書いたけど、必ずしもそうじゃないなとも感じた出来事だった。

 

ちょっと長くなったけど読んでくれた人、ありがとうございます。

1人の時間と、人といる時間の両方を過ごして思ったこと。

こんばんは、つきしまです。

 

先週は、人に会おうって決めてた1週間でした。人に会うのはいいですね。

ここで言う、「会う。」ってのは、60分以上の対話を1対1ですることであり、

対話の内容は世間話とかではなく、お互いについての理解を深める対話や、今ぶつかってる壁について一緒に考え、解決に向かう方法を共に考えたりするような対話のことを、「会う。」としています。

 

これを先週は6人とやったのですが、いいですね。人と会うのは。

人に会うって大事だなと思いました。

 

先々週とかは、上に書いたような対話の時間はあまりなく、(楽しくお喋りみたいな時間はとってました。)、1人の時間が多かったのです。

1人だと感情の振れ幅が狭くなるなあと感じました。

大きな喜びもなく、大きな悲しみもなく、というように、感情が1直線になってる感覚だなあ。

 

それに対して、先週は6人と対話しました。

やはり人に多めに会った先週は感情の振れ幅が広かったような気がします。悲しいことは特になかったので、嬉しい方への振れ幅が多かったかなあ。

 

そうやって会ってみてよかったことはたくさんある。

 

まずはFBをもらえるからいい。

僕と話す人の中で、話した後になぜか毎回FBをくれる人がいる。「君と話すと、○○だからいい。」みたいなFBだ。こういうFBはやはり嬉しい。

一方で別の人で、今の僕を見て、僕を指摘するようなFBをくれた人もいた。「今の君は○○な状態だ。」みたいなFBだ。これも案外嬉しい。こっちの方が嬉しいかもしれない。

とにかく、当たり前だけどFBは、1人じゃ得られなくて、人に会う良さだ。

 

あと人に会うって良いなあと思ったのは、人に感謝されるから良い。

めちゃめちゃ当たり前のことだけど、人に感謝されるのって人に会ってる時だけなんだなって、先週人に会って思った。

僕と話して、「話を聞いてくれてありがとう。」とか、「また、話して欲しい!」って言ってくれる人がたくさんいた。

こうゆう風に、感謝してもらえたり、必要としてもらえるのは、有難いし、人に会わなきゃ、手に入れられないことだなあと思った。当たり前のことだけど。

人に感謝してもらえることが、人に会う良さでもあると思った。

 

他にも、頑張ってる人に会ったら、刺激もらえたりする。なども人に会って良いな。って思えることでもある。

 

ここに書いた、人に会うことの良さって、

ただの世間話をする。とか、飲みに行く。とかじゃ得られない良さだなあと感じる。

 

僕は、飲みに行くのも、ふざけた話をするのも好きなので、こっちの「会う。」も増やしたいなあ。

 

2つの「会う。」で予定を埋めたいなと感じた1週間だったのでした。

 

 

多様性と分類

こんばんは。

今日も、僕の大好きな授業の学びを投稿します。

 

それは分類の話です。

人間は色々なものを分類します。そして、分類し、混とんとしたものを整理し、仕分けをします。なので分類はとても便利です。

しかし、分類を行うと、分類Aにも分類Bにも分類できない、例外Cが生まれることがあります。

 

この世界は、この、例外Cにとても厳しいみたいです。

今は、多様性を尊重しよう。という風潮が生まれつつありますが、尊重という言葉遣いである限り、例外Cが、例外じゃなく、分類Cになる日は来ないのだろうなと考えたりしていました。

 

例えば、分かり易い例で言うと性別の分類です。

性別は、

男と女

という風に分類します。

この分類の境界にはLGBTがあります。

 

男の人、女の人は、当たり前すぎて気付かないことも多いと思うけど、この世界は男の人や女の人が生きやすいようにできてるはずです。

男湯・女湯、メンズ・レディース、男子トイレ・女子トイレ、などなど。

 

これが分類によって、生まれた恩恵です。

しかし、分類の境界にいるLGBTの人は、暮らしづらさがあるのではないかと思います。

 

他にも、結婚する人の目的は、無意識的にだけども、この分類の境界から逃れるために、結婚してるって目的もあるのだろうなと思います。

 

ここでの分類は、恋愛感情がある状態の分類になりそうです。

具体的には、 
付き合ってる状態(恋人)

籍を入れてる状態(夫婦/結婚)
に分類されます。


恋人に分類されるのは、結婚できない年齢だったり、短い時間しか互いの恋愛感情を育んでいない人たち。
夫婦に分類されるのは、結婚できる年齢で、比較的長い時間恋愛感情を育んでる人たち。
って感じです(こちらも例外はあると思うが。)。


そしてこの恋人と夫婦の分類の境界になるのは、

結婚できる年齢かつ、比較的長期間愛を育んでいる人たちになるのかなと思います。事実婚とかが近いかもしれないですね。

こうゆう人たちは、

籍を入れて、結婚の分類に入っておかないと、色々制度的にも暮らしにくくなりそうです。事実婚だと、税金の減税・遺産手続き・手術などの代理手続きができないそうです。

それに、事実婚反対!なんて人もいて精神的にも辛い思いをするかもしれないです。

 

結婚するのって、こうゆう生きづらさから抜けて、分類の枠組みにはまることが目的でもあると思うのです。


こんな風に、分類は便利ではあるけども、境界を生み、その境界にいる人は、生きづらくなるなんてことがあると思うのです。

 

分類の境界にある例外Cを、尊重する流れは少しずつ来ているような気がします。
しかし、Cに対して「尊重」という言葉を使ってる時点で、例外Cは分類Aや分類Bと並列の扱いは受けられないように思います。

 

分類の境界にある例外Cも、例外Cではなく、分類Cと呼ばれることが、

「多様性を尊重する時代」のその先の、「多様性が当たり前な時代」には必須なのだろうなと感じました。

 

分かりにくいことを書いてしまったので伝わってるか微妙ですが、読んでくれた人がいたらありがとうございます。