宗教についての考え方
こんばんは。
最近チェスにはまってたのですが、コンピューターのレベル8にずっと勝てずにいました。月曜日から今日までにレベル8に1回勝つことを目標にしてたのです。
昨日まで1度も勝てなかったのですが、今日1度だけ偶然勝つことができました。
目標達成!
でも、もう1回やったら普通に負けてるので、来週日曜までに2回勝ちたい。
今日は、またまた、僕の好きな大学の授業で学んだことをシェアしようと思う。
以前、寝ている生徒を執拗に起こす先生がいる話を書いたのだが、その先生の授業内容だ。
この先生の授業は、気付かぬうちに多様性を認めていなかった僕に、僕が多様性を認めていなかったという気付きを与え、多様性を尊重するきっかけも与えてくれるから、好きだ。
今日は宗教について書くが、宗教に対するイメージがこの授業で変わった。
この授業では宗教(特に創唱宗教について)を、宗教体験の中で啓示や悟りを得た教祖がそれをもとに開宗したものと定義する。
思想は、倫理性を持つ教祖の教え。
活動は、祭典や教祖の教えを学ぶ集会・布教活動・慈善事業など。
救済の在り方としては、魂の救済をする。救済されたと確信した人は、その信仰を内面化し、信仰生活に入り、布教活動に邁進する。
この授業では、これらを宗教の構成要素としている。
宗教と聞くと、プラスのイメージが湧く人は少ないと思う。
なんか怪しい。とか、洗脳されそう。勧誘がしつこい。とか、そういう理由で、宗教に対してマイナスイメージを持つ人は多い。
僕はそうだった。
ところで、こんな会話があったら、どう思うだろう。
「僕は、1ヶ月以内に90%の確率で癌になって、死ぬんだ。お医者さんにも言われた。」
~1ヶ月後~
「癌にならなかった!お医者さんも驚いてたよ!僕はとても運が良いって言ってた!」
ごく自然の会話の様に見える。注目してほしいのは、
医者は、男の子が癌にならなかったことに驚いていて、
癌にならなかったことを説明できないから、「運が良かった。」と言っていることだ。
つまり、医者は、男の子が癌にならなかった理由を科学で解明できないから、
運のおかげにしたのだ。
こんな風に、人は、人以外の大きな力(神や運)に頼って、
科学では解明しきれない不可解な出来事を、了解できる出来事にしようとする性質がある。
別にこれが悪いと言ってるわけではない。
むしろ、分からないことや、苦しいことを、人間以外の何か大きな力に頼って安心する行為は、人間誰しもがやっている行為だ。
「めっちゃ運良かった。」とか、「神様が助けてくれたんだ。」とかは誰もが言ったことある言葉だろうけど、これも不可解な出来事を了解な出来事にしてるのが表れているとも言える。
人は、了解することで安心したいのだ。
だから科学で解明できることは科学で解明することによって安心し、
科学で解明できないことは、人以外の大きな力にすがることで安心する。
何が言いたいかというと、
宗教も、神や運と同じように、科学で解明できないことに苦しんでる人を救う役割を果たしているということだ。
どこかの教団に所属してる人は、科学では解明できないことに苦しんでいた過去がある人が多いのだと思う。
どうしようもなく苦しんでいたそんな時に、その教団の教えに、救われたのだとしたら、
僕たちはその人が教団に所属していることを、どうこう言えるだろうか?
もし自分がその人の立場だったら、自分はその教えに対してどんな思いを抱くだろうか?
自分が心から救われた教えだから、知り合いにも教えてあげたい。という気持ちにならないだろうか?
例えば、どこかの教団に所属している人を見て「あの人は洗脳されている。怪しい。近づくのを辞めよう。」なんて言うことができるだろうか?
僕らだって苦しい時や不可解な事は、運や神のせいだと考える傾向があるにも関わらず、だ。
この先生は言った。
「宗教を批判するなら、科学ですべてを解明してからにしなさい。」
と。(この先生は、無宗教の人だ。)
もちろん、宗教の思想にも、良くない思想はあると思う。
布教活動をする時に、強引に集会に連れて行ったり、宗教とは言わずに集会に連れていったりする人もいるかもしれない。
そんな風に、誰かに迷惑をかけたりする思想や活動は、良くないとは思うけれど、
この授業を受けて、宗教の力で心を救われた人に、僕はマイナスのイメージをもつことが難しくなった。
科学と宗教はお互いを補完し合う関係なのだ。
批判する存在ではないのだ。
思考停止は良くないなと思ったし、気付かぬうちに、多様性を認めていない自分に気付かされた授業だった。