人の責任にはしたくないけど、自分の責任にするのだって疲れてしまう。
こんにちは、つきしまです。
今日は前回の投稿の続きを書きますよ。
前回は、
他責ではなく、自責で問題を捉えよう。
ってことを書いてました。
自責ってのは、
問題を自分の問題として考えること。
他責ってのは、
問題を自分以外にあると考えること。
自責の方がいい。でも自責にも問題があると思う。ってところで、前回のブログは終わりました。
今日はその、自責の問題を僕の言葉で、書いてみようと思います。
ネットで調べても色々出てきますが。
では早速。
自責の問題①「ストレスがたまりやすい。」
自責は疲れる。
そして人との関わりにおける課題を解決する時は特に、ストレスも溜まりやすい。相手が自責の精神を持ってないと自分だけが頑張ることになるから。
そして個人的には、この問題が、もっとも身近で分かりやすい、自責の問題点だと思う。
例え話の1つとして、前回の投稿でも使った例を出してみる。
夫婦が子供の素行不良についてもめてるケース。夫は妻の教育やしつけが悪いと非難し、妻は夫が子供と全く遊ばないのが悪いと非難する。
と、こんな例を前回のブログで書いた。
ここで妻が自責の精神を持つようになると、
子供の教育や、しつけの仕方を試行錯誤するなどの変化が生まれるはずで、それはとても良いことだと思う。
けど、普段と違う慣れないことをするわけだから、当然疲れる。
さらに疲れるしストレスが溜まるのは、夫が自責の精神を持ってなかった場合。
そうゆう夫は、
妻が頑張ってたとしてもそれには目を向けず、中々変わらないであろう息子の態度だけに目を向け、
夫は妻への非難をやめないだろうなあ。と思う。
妻からしたら、自分は頑張って変わろうとしてて、でも最初は中々上手くいかなくて、辛くて、
そんな時に、自分は何も変わろうとしない夫から、さらに息子の問題の責任を追求されたり、しつけを非難されたら、
妻はパンクするはずだ。
あなたは何もしてないじゃないか。全部私のせいにしないでくれ。
って思っちゃうよなあ。って思う。
せっかく芽生えた自責の精神も摘まれてしまい、夫への非難を再び始め、他責の精神が生まれてくるかもしれない。
コミュニケーションの問題においては特に、双方が自責の精神を持ってたらどれだけ楽になることかと思う。
けど、そんなことは中々ないし、
そもそも自責は自分が変化することだから、
疲れる。
自責の問題② 「問題解決が複雑になっちゃう。」
それって、ちょっと相手に指摘すれば解決できるじゃん。
って問題も、自責が度を超えると、問題解決にかなり時間を要することになる。
例えば、
家族の誰かがトイレの鍵を閉めないで入る癖がある人がいたとして、それをやめてほしいとする。
そんな時は、一言
「トイレの鍵閉めて。」
と言えばいいものの、自責の度がすぎると、
「私がトイレの鍵を閉めて欲しいんだから、私がどうにかして鍵を閉めなきゃ。」
とか思って、トイレの外側から無理矢理爪で鍵閉めたり、小銭を使って鍵の溝にはめて閉めたり、どうにかして自分の力で鍵を閉めようとするかもしれない。(イメージ伝わってるかな?笑)
程よく、他責の精神を持っていたいと思う。
ただ、そのバランスが中々よく分からないから、困ってるのだけど。
この例があんまり良い例かは何とも言えないけど、でもやはり、
度を過ぎた自責は、簡単に解決できる問題を複雑にしてしまうかもしれないとも思う。
僕が思う問題点はこの2つかな。
ネットで調べたら、自責の問題点もっと出てくるけど、個人的に体感したり、腑に落ちてる問題はこの2つ。
特に問題①は解決できたら本当にいいコミュニケーションとか、人間性の向上につながりそうだと思っているから、
みんなが自責の精神をもつことができたらいいなあ。って思っている。
これ読んでるかた、今日から意識するだけでもいいので、自責の精神を意識してもらえると嬉しいな。
自責の問題点よりもむしろ、実はこっちを伝えたかったブログなのでした。
じゃあ、おやすみなさい!
いつものように、リアクションまってますー。