メタメッセージは必要だと思いますか?

こんばんは、つきしまです。

以前、メタメッセージについて授業で扱ったのだが、それについて考えたことについて書いていこうと思う。

 

メタメッセージって必要なんだろうか?ということだ。

 

ちなみにメタメッセージってのは、

メッセージが伝えるべき本来の意味を超えて、別の意味を伝えるようになっていることを指す社会用語のこと。(Wikipediaより。)

 

例えば、恋人と買い物なんか行って、女性が荷物を持ちながら

「重いー」

とか言ったら、それは

「この荷物もってよ。」

というのがメタメッセージである可能性がある。

 

すでにこの例だけで僕は、メタメッセージに嫌気がさしてしまう。

僕はメタメッセージが好きじゃない。必要なのだろうかと思っている。

 

言いたいことあるなら直接言えばいいのにー。

少なくとも自分が何かしらの利益を享受したいのに、メタメッセージで回りくどく言いたいことを伝えて、相手に気付かせるってのは、わがままな気がするのだが。。。

と思ってしまうのだ。

 

確か以前のブログにも、言いたいことあるなら言いたい人が言えばいいのに見たいなこと書いたけど、それとほぼ同じだなあ言ってること。

 

あとメタメッセージって、受け取る側の誤認識や、そもそも汲み取れないことも結構あると思うから、コミュニケーションをややこしくするような気もする。という意味で必要なのか分からない。

例えば上の恋人との買い物の話でいえば、メタメッセージの存在とそれを誤認識するせいで、こんな会話が成り立つ可能性もある。

 

女性:「あー荷物、重いー」

男性:(これは、荷物を持てというメッセージなのか。。。?それとも、ただ重いという感想を言ってるだけなのか。。。?あー分からん!えーい、とりあえず言ってみるか!)

男性:「荷物もとうか?」

女性:「え、別にいいよ。持てるから。」

 

こんな感じだ。うーん、めんどくさい。

メタメッセージの存在のせいで、男性が変に考えてしまって、メタメッセージの誤認識をしてるわけだ(あ、この例の場合、メタメッセージはないか)。

 

これは何も女性が悪い訳じゃなくて、メタメッセージの存在がこの面倒な会話を生みだしているのだと思う。

 

この例では男性は、メタメッセージをくみ取ろうとしてるが、

相手がメタメッセージをくみ取れない場合だって大いにある。

そうなったら、人間関係が悪化することも考えられる。

 

メタメッセージって必要なのだろうか?

 

そんな風に思った授業だったという振り返りみたいなブログでしたとさ。

今日は短めだ。

それじゃあ、また!

 

就活落ちて思ったこと書いてみた。

こんばんは、つきしまです。

 

今日は就活やってて思ったことをつらつら書こうと思います。

 

こないだ、初めて就活で面接受けに行ったんですけど、僕落ちたんです。

その時、いわゆる、お祈りメールというもので不合格通知が来た

 

知ってると思うけど、お祈りメールってのは、こんな感じのメールだ。

 ⇩⇩⇩

○○様

先日は、弊社説明会にお越しいただきありがとうございます。

社内で検討した結果、ご希望に添えない結果となりました。

○○様のご活躍、お祈り申し上げます。

 

みたいな感じだ。

 

僕はこれ見て、就活の問題の原因は、一部このメールにあるんじゃないかって感じた。

 

ここでいう就活の問題ってのは、「学生が自分らしく就活に臨めない問題」だ。

 

例えば、

自分の経験を誇張したり、もしくは捏造したりして、面接で話したり。

私服でいいのに、スーツで選考に行って、自分らしさを殺してでも減点されることを避けたり。

とかの問題だ。

 

で、このお祈りメールがなぜ「自分らしく臨めない問題」の原因になると思ったか。

それは、落とされた理由が全く分からないため、自分を否定されているように感じてしまうと感じたからだ。

(あくまでも、僕がお祈りメールをもらった時に感じた主観だけど。)

 

具体的な、僕の面接の話をする。

僕は、とにかく等身大で飾らずに自分を見せるって姿勢で面接に臨んだ。もちろん、最低限のマナーは守った上で、だ。

で、面接後に来たメールは、先に書いたような、

「社内で話し合った結果~今後のご活躍をお祈りします。」

というお祈りメールだ。

 

このメールだけじゃ、

僕の何を見て、選考通過に至らないと判断されたのか分からなかった。

 

会社の雰囲気に合ってない?

僕の話のインパクトがない?

頭悪そうに見えた?

何言ってるのか伝わらなかった?

一体何を見て、不採用って考えに至ったの?

メールだけじゃ、何も分からなかった。 

 

そして最後には、受け入れてもらえなかった理由が分からなくて、自分を否定されたように感じた。

 

これが僕が感じたことだ。

 

だから、メールが来た瞬間は、結構ショックだった。

志望度が高い会社ではなかったけど、

でも、自分を着飾らずに等身大で行った結果だったから、自分を受け入れてもらえないと感じた。

 

確かに僕は頭のいい人間ではないし、優秀(って何?)でもないと思う。

だから、これまでやってきたことは間違いだったのか。

自分が専念したいことに専念し、就活のスタートが遅れたのが間違いだったのか。

自分のやりたいと思ったことに注ぐ力を減らして、就活の準備をやっておけばよかったのか。(僕は4月から就活を始めて、選考は5月から始めた。)

会社に合わせた自分をつくれば、内定がもらえるのか。

 

とか考えて、自分を否定したり、自分を見失うであろう行動をとりそうになってしまった。

 

こんな風になったのは、メールもらった直後だけで今では大丈夫だ。

だって今の自分も、就活せずに他のやりたいことに取り組んでたこれまでの自分もけっこう好きだし、これまでやってきたことは何も間違ってないと信じられてるからだ。

 

だから、自分を見失うであろう行動はとらないで済んだ。

 

今では、

そもそも着飾らずに行ったんだから、単純に会社とマッチしてなかった。

もしくは、僕の等身大の自分を見せる見せ方が下手くそで伝わらなかった。

この2つのどっちかが落ちた理由だろうと考えることができている。

 

けど今後、今回のように不採用が通達されることが積み重なると、こんな風に思えなくなって、自分で自分を否定するようになってしまうかもしれない。

(それにこんな風に考えることは、ベターではあるが、ベストではない。ベストは、会社に落とした理由を話してもらうことかな?と思っている。)

 

また、お祈りメールで僕の様にショックを受けて、自分を否定しそうになる人や否定する人は、少なからずいるんじゃないかなと思う。

 

とーっても長くなったけど、僕の話も交えて、お祈りメールが、

自分らしく就職活動に望みたい人でも、自分らしく就活をすることを怖れてしまう原因になると思うことについて書いた。

 

僕は思うんだが、

企業側は学生を落とす時、

落とす理由は何なのか、それが理由足りうるのは弊社がこんな会社だからだ。

くらいには書いてほしいと思った。大まかにでもいいので。(それができない事情が、何かあるのかもしれないけど。)

でもそうすれば、落ちた理由は納得できるから、自分に嘘をついたり、誇張して就職に望む学生は減るんじゃないかって思った。

 

ただ、これは企業だけでなく、学生にも言えることだとも思う。

学生が、選考を辞退する場合や、内定を蹴る場合も、

しっかり理由を話すことは、企業側からしてもありがたいだろうなと思う。

 

てな感じで、

直近のことなので、ぐちゃぐちゃだが、会社落ちて思ったことを書いてみた。

 

日本の就活を変えてやると思えるほどの経験ではないが、

どうなんだろう?と思った経験だったなあ。

 

それじゃあ、読んでくれた人、ありがとうございました。

 

面接の練習しよーっと。

 

 

 

 

 

「初めて自転車乗った時、失敗するけど、とりあえず乗ってみたでしょ?だから、とりあえず挑戦してみよ?」は聞き飽きた。

こんばんは、つきしまです。

 

自転車のって出かける前に、整髪料で一生懸命髪整えてる時間って、

世界で1番時間の無駄ですよね。風でね。もう無駄になるよね。

 

まあいいや。

 

僕は、最初から上手くいくわけないんだから、下手くそでいいから始めたいことあるなら始めればいい。という考え方がある程度定着したのですが、一般的にはどうなんだろう。定着してるものなのかな。

 

そもそも何か始めたいことがある人が多いのか、少ないのか、

その人たちはびびってるのか、びびってないのか。

果たしてどうなのか分からないけど、

僕が「まあやってみよ。」って思えるようになった考え方でも書いていこうかなあ、今日は。

 

2つあるんだけど、

1つは、やりたいことがあるのに、びびるなんて、びびらせてくるモノに人生を振り回されてるじゃん。って考え方だ。

このブログでは良く書くやつだ。だから今日は書かない。

 

2つ目は、びびってる原因が「失敗して笑われそうだから。」とか「上手くないのに何か始めたら惨めに思われるから。」とかの場合に限定で活用できる考え方。

僕が何か始める時に、躊躇する理由は大抵、こういった原因なので、その考え方は役に立つのだ。

 

その考え方ってのは、「初めて始めることなんだから、上手くいかなくて当たり前。」

って考え方だ。

よく聞くやつだけど、僕はこれに賛成。

 

ただ、この考え方を吸収させるために、大体こう言う人が多い。

「初めて自転車乗る時、一回で乗れた?乗れないでしょ?ほら、最初から上手くいくわけないでしょ?とりあえず、乗ってみたでしょ?やってみなよ。」って。

 

これには反対。

確かに間違ってはないんだけど、これじゃあ、

始めることに躊躇してる原因が「笑われるから」とか「惨めに思われるから」とかの人には、確実に響かない。

 

だって、初めて自転車乗る時って幼いから、失敗しても笑う人いないもの。

親と練習することが多いと思うけど、笑う親なんて少ないだろうし、

幼ければ幼いほど周りの友達も、自転車乗れないの当たり前だから、友達にも笑われない。

 

だから、「笑われる」とか「惨めに思われる。」って気持ちが原因で、躊躇してる人には、自転車云々のアドバイスは効果ない。僕はそうだった。

 

しかし「初めて始めることなんだから、上手くいかなくて当たり前。」ってのは、さっきも言ったけど、賛成。

 

じゃあ僕がこの考え方を、吸収できたのはどんな風に思った時かというと、

「笑ったり惨めに思う人にはできないことで、自分にはできることはある。」

って思えた時だ。

つまり、

「笑ったり惨めに思う人がいても、自分だってその人のこと笑えるんだぞ。だからそんなやつなんかビビらないでいい。」

って思った時に、吸収できた。

 

具体例だしてみよう。

例えば、歌が下手で練習してたら笑ってくる人がいたとする。でも、自分はその人より文章を書く技術があるから、自分だってその人を笑える。

 

足が遅くて練習してたら笑ってくる人がいたとする。でも自分はその人より勉強ができるから、自分だってその人を笑える。

 

勉強ができなくて頑張って勉強してたら笑ってくる人がいたとする。でも自分はたくさん街で遊んでるから、その人よりたくさん街を知っているから、その人を笑える。

 

 

と、こんな感じだ。

誰だって、何か持ってるはずだ、すこーしだけ自信あるもの。漫画めっちゃ知ってる。美味しいラーメン屋たくさん知ってる。めっちゃ遊ぶ場所知ってる。何でもいいと思うのだ。

 

要は笑ったり惨めに思う人だって、

自分は多少上手くできたり知識がある分野では、下手くそだし、失敗もきっとするんだから、

そんな人にビビる必要はないってことだ。

 

ただ、ここで誤解が生まれないで欲しいのだけど、

なにも、笑われたり、惨めに思われたら、仕返しに笑え。と言ってるわけじゃない。

 

びびるほどの相手じゃないんだよーってことが言いたいのだ。

 

ヘタクソでもいいじゃないか。

ヘタクソでもいいから、始める方が立派だと、ずっと思えていたい。そこから上手くなればいいから。

 

と、こんな風に思えて、僕は何か始めることへの躊躇は減りました。

 

これを読んで、何か始められる人がでてくるのか、気になるなあ。

またねー!

過去に意味を見出す作業は、今の自分を好きにする。

こんにちは、つきしまです。

書いてくよー。

 

これを読んでくれてる人には、言いたくない過去や嫌いな過去はあるかな。

そんな過去を、好きになれる、もしくは好きとまでは行かなくても、嫌いじゃなくなるくらいになる、そんな考え方を、僕なりに書いてみます。

 

めちゃめちゃ辛くて、思い出したくもない過去を抱えてる人にとっては、そんな簡単に言うな!って思われる内容かもしれないけど、少なくとも僕は、ここに書く考え方に救われたので、書いてみます。

不快な思いをしそうな人は、読まないでも構わないよ。

 

まずは、僕の話をする。

以前のブログにも書いたけど、僕は中学の頃、嫌がらせを受けていたのだけど、

その過去は以前までは、自分にとって良い過去ではなかった。

 

僕自身はいじめではなく、嫌がらせだと思っていたけど、誰かに話せばいじめだと思われる過去だろうし、そう思われるのにいい気はしなかったから、当時のことは誰にも話してなかった。

いじめられてたってなんとなく、カッコ悪いって思ってたから。

 

それに、いじめではなく嫌がらせと思ってるとは言え、

学生生活では1番嫌な経験だし、もうあんな経験したくないと思っていた。

あの中学に行かなければ楽しい中学生活を送れていたのに。とも思っていた。

 

話は変わって、今の自分の話をする。

突然だけど、

僕は、人の本当の気持ちを知りたいって思いが人より強い。

あと、僕は意欲とかやる気が人並み以上にはある(らしい)。

 

僕は自分のそんなところが好きだ。良いなって思うところだ。

なぜ急にこんな話をしたかって言うと、僕のこの、「良いなって思うところ」は、

 

中学の時に受けた嫌がらせの経験から主に育まれたと思っている

 

ことを伝えたいからだ。

だから、僕にとって、以前までは嫌だった中学の過去も、今では自分にとって大切な時間だったと思っている。

 

何が言いたいかっていうと、

自分の良い所が生まれた理由と、嫌な過去の紐づけができれば、その過去もポジティブに捉えられるってことだ。

 

もちろん僕自身、「自分の良いなって思うところ」が100%完全に中学の時代のおかげで育まれたとは言い切れないし、そうだとも思ってない。

けど、嫌いな過去は今の自分にいい恩恵を与えてる可能性はあると思うし、

何より、そう考えた方がきっと幸せだ。

それが出来たらきっと、嫌な過去は自分にとって大切な過去に変わる。

 

ちなみに嫌がらせの経験が、どう僕の良い所に派生したかも書いておく。

 

まずは、人の本当の気持ちを知りたい気持ちが強いってことに関して。

僕は嫌がらせを受けたことで、人を全く信頼できなくなったり、自分の本当の気持ちを出せなくなったりした時期が何年も続いた。

と同時にその期間、僕の心の奥には、「本当の気持ちを出したい。」とか、「本当の気持ちを見たい。」という思いが強く育まれていった。(と思っている。)

 

次に、意欲とかやる気が人並み以上にあるって話に関して。

僕は、当時、嫌がらせをずっと我慢してた。当然不満もあったけど、誰にもそれを吐き出さなかったので、どんどん心に不満が溜まっていった。

と同時に、自分の中にある気持ちを溜めこむキャパシティが広がっていき、

嫌な思いや、やる気や意欲のような良い思いも全部含めた、気持ちを溜めこむ大きなタンクが育まれた。

それによって、意欲ややる気が大きくなりやすくなった。

(こちらに関しては、ある人から、教えてもらった。ああ、なるほどな。と思っている。)

 

 

と、こんな感じで、嫌な過去は、自分の良い所との紐づけができる。

これが出来たら、自分を、過去の時点から好きになれると思うのだ。

 

前提、自分の良い所を知る必要があるけど、それは考えるか人に聞けばいい。

聞くなら、深く関わってる人に聞くことがおすすめだ。

 

と、こんな感じで、僕が思う、嫌な過去をポジティブに捉える考え方を書いてみた。

良かったら、試してみてねー。

 

 

読んでくれてありがとうございました!

分からないと言ってしまう人へ

こんにちは、つきしまです。

 

GWを満喫しています。たくさん人に会えて嬉しいです。

 

さて、今日は、分からないとよく言ってしまう人に向けて、「分からない」と言ってばかりいると、どんなことが起こるか、書いてみます。

 

僕は、以前ある人に、「分からないと言わないようにしてみなさい。」と言われたことがあります。

自覚はなかったのですが、どうやら僕は、「分からない」ばかり言う人間だったみたいです。

 

それからは、分からないと言わないで、考え続ける癖をつけるようにしました。

「分からない」と言うことが癖づいてた僕にとっては、中々苦しい癖付けだったのですが、おかげで良いことはありました。

 

分からないって言う人けっこういるような気がするので、

「分からない」と言わないことでどんな良いことがあったか、逆に、「分からない」と言うことでどうなってしまっていたのか、書いていこうと思います。

 

良いことにも、主産物的な良いことと、副産物的な良いことがあります。

 

主産物的な良いことは、

大体のことは、自分で自分の答えを出せるようになったこと。

僕は世の中間違ってることの方が少ないと信じたい人間なので、下手くそでもいいから自分の答えを出せるようになったのはでかい。

何がでかいかって言うと、すごい大きな言葉を使うと、

1人でも生きてく力がついたってことだ。いわゆる自立だ。

 

逆に、この主産物が身につかなかったら(=「分からない」と言い続けたら)どうなるかというと、

大体のことは人から答えをもらうのを待ったり、答えをもらいに行ったりしていたはずだ。

それの何が悪いかって言うと、

いつまでも誰かのお世話にならなきゃ生きていけなくなる。シンプルに、いつまで経っても自立できないってことだ。

それでいいなら、答えをもらいに行けばいいと思うけど、それでいいって人はそんなにいないんじゃないかな。

また、何か決め事をする時、人から答えをもらうと、

その決め事が上手くいっても、自分で出した答えじゃないから自信につながりにくい。

逆に上手くいかない時は、責任の追及先を、答えをくれた人にしてしまいがちだから、反省材料が少ない。

反省するとしたら、「ああ、人の意見をそのまま飲み込むのはやめよう。」くらいのものかな。

 

他にも、たくさんの人に答えをもらいに行くと、大抵、色んな意見をもらうことになり、「どれが答えなんだ。。。」と迷子になる。

僕は、以前休学するか否か決める時、社会人30人くらいに、

「休学するなら何しますか?」

とバカみたいに色んな人に話を聞きに行ったが、色々出てきすぎて、迷子になったものだ。

 

こんな感じで、分からないと言い続けることには、デメリットが多いなと感じる。

 

副産物的な良いこともある。

まずは、粘り強く考えられるようになってたこと。

大体のことは自分で答えを出せるようになったと上に書いたけど、やはり何でもかんでも一瞬で答えが出るわけではない。

けっこう考えなきゃ、分からないこととかもあって、そうゆう問題にたくさんぶつかったら、いつの間にか粘り強く考えられるようになってたと思う。

 

あとの良いことは、考え続けることで、言葉にする力がつくような気がしてる。

これは僕自身まだ体感できてないメリットなんだけど、考え続けると言語化が上手くなるという理屈は、分かってもらえると思う。

 

てな感じで、分からないと言わないことには、良いことは多いと感じる。

 

ただ、分からないと言わないようにする時に気を付けた方がいいなと思うことがある。

それは、ほんとに分からないことに関しては、

考え続けても時間だけだ過ぎてしまうということだ。

 

そんな時は、人に頼ってもいいと思う。

たくさん考えて、それでも分からない時って、とても苦しいのだけど、

そんな時、誰かに一緒に考えて欲しいってお願いをして、助けてもらえた時は、めちゃめちゃ嬉しいものだと思う。

 

だから、どうしても分からないことに関しては、人に頼ればいいのだ。勇気いるけど。

 

というように、分からないと頻繁に言ってしまう人は、読んでみて、

ぜひ分からないと言わない癖をつけてみたらどうでしょうか。助けてくれる人もきっといるはずだ。

 

今日も、読んでくれてありがとうございました。

また、次回!

 

 

お金のために働いて思ったこと。

こんにちは、つきしまです。

前回、日曜日はブログを投稿しなかったので、1週間ぶりのブログです、 

 

今日は、

僕が前回ブログを投稿しなかった理由と、この1週間で気付いたことを書こう。

 

僕がこのブログを通して伝えたいことは、自分の生きたい人生を生きようってこと。

自分の人生を生きようってことを色んな角度から伝えてる投稿が多い。

 

それを踏まえて先週ブログを投稿できなかった理由を書くのだけど、

先週は僕が、人に何か伝えられる状況じゃなかった。どういうことかと言うと、僕が全く自分の人生を生きてなかったってことだ。

自分が全くできてないのに、ブログで自分の人生を生きることについて何か書くことなんてできなかった。

だからブログを書かなかった。

 

どうしてそんな状態になったのか。

生活の大半をバイトに注ぎ、お金のために生きてしまったからだ。

 

僕はUber Eatsのバイトをやってるのだけど、ずーっと自転車こいでた。でも、それは僕のやりたいことじゃなかった。 

最初は自転車こいでる間に、自分のやりたいこと(歌詞考えたり、メロディ考えたり)やればいいって思ってたけど、それは中々上手くいかなかった。

 

でもお金稼がなきゃ。って思って、バイトは続けた。

そうしてバイトを続けるとその内、自分のやりたいことには殆ど手が回らなくなり、お金を稼ぐためだけの日常を過ごすようになっていた。

バイトが終わったら、「今日1日なにしてたんだろう」って思うこともあった。

でもある程度の時間働くと、「よっしゃ、今日何万稼いだ!」とか思ってしまった。

お金に人生を捧げ、自分のやりたいことをやらない不毛とも言える時間にも関わらず、お金を稼げたことに喜びを感じる。

そんな日が少しずつ積み重なってしまって、

もう誰のために、何のために生きてるのか分からないそんな状態になってしまった。

 

そんなことがあり、ブログを書ける状態じゃなくなってた。

 

「あ、もうこの生活だめだ。」と思った。 

このままお金稼ぐために生活してたら、お金に振り回される人生になる。

そんな生活を続けてたら、いつか自分を見失ってることすら気付かなくなる。

そう、思った。

 

だから今週はバイトをしなかった。自分のやりたいことだけやった。

 

映画を見たいから映画を見た。

友人に会いたいから友人に会った。

体力使うと思ったけど、友人と夜通し遊んだ。

歌を歌いたいから歌を歌った。

 

自分が心からやりたいことに手を出した。

 

それによって生まれた変化。

 

僕は、元気になった。

 

あとはバイト漬けだった時は沈み続けていた感情に波が生まれた。

 

その証拠に、バイト中は全く浮かばなかった歌詞が、ものすごいスピードで浮かんできて、歌詞がほぼ完成した。

 

バイトに限らず、お金をもらう仕事は、時に本当に大切なものを見えなくする。

そう感じた。

 

もちろん、大切な友達と遊ぶにも、大切な家族と出かけるにも、自分の趣味を満喫するにも、お金は必要だ。

だから仕事をしないで過ごすなんてのは、今の社会じゃ、むりだ。

 

でも、今自分がやってる仕事が、

自分の大切な時間を確保するための仕事なのか

それとも、

お金を稼ぐための仕事なのか

それを見失ってはだめだと思った。

 

もちろん、やりたいことをやってお金を稼げるのなら最高だけど、

それができない人・まだ出来てない人だっている。

自分のやりたいことの内容によってはお金がかかるから嫌でも働かなきゃいけないこともあると思うし、

何かにお金を投資するために嫌でも働く必要がある場合もあると思う。

全ての人がやりたいことでお金を稼げるとは思えない。

お金を稼ぐために働くこともあると思う。

 

でも、そんな時、目の前のお金稼ぎに夢中になると、大切なものや自分の心が少しずつ霞んでくる。

そして、最後には何が大事なのか分からなくなり、自分の心も見えなくなる。

そんな気がする。

 

お金は数字だから、分かり易い。だからたくさん稼げると、嬉しくなる。僕自身、達成感も持ってしまった。

 

大切なものや自分から目を逸らさない強さがいると思った先週だった。

 

今日はここまでにします。

また、読んでくれたら嬉しいです。